最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

島倉千代子

「♪涙の谷間に太陽を」

Shimakura_namidanotanimani

○ひとりじゃないぞ 負けないぞ

「あいちゃん」こと私の母は島倉千代子さんが大好き、若い頃は、いつも家事をしながら唄ってた。
数え切れないくらい、たくさん聞かされ、いつの間にか、私も島倉さんの歌を憶えました、今でも何曲かは歌えます。
幼い頃「お母さん、楽しいから歌っているの?」と訊いたら「悲しいから歌っているんだよ...(涙)」なんて言われて、ドン引きしたこともあったっけ。

その母が認知症になって3ヶ月、こんどは転んで骨折した。
肋骨3本と尾骨仙骨を痛めてしまったのです。
頭と体の両方がいうことを利かなくなって、しょげかえる母を見ていると、介護をしていても、辛くて、悲しくて、切なくて・・・
物忘れ外来の先生曰く「あまり動けないのなら、テレビや音楽で、出来るだけ脳を刺激してあげてください」とのこと。

それで、母が持っているCDを全部CDラジカセに詰め込み(最近MP3再生に対応しているのに気がついたんです)、聞かせる毎日。
その歌を聴きながら介護をしていて、蘇った記憶があります。
子供の頃に覚えた島倉さんの歌は、すべて母の唄声からと想い込んでいたのですが、一曲だけ自分で覚えた歌があった。

「♪涙の谷間に太陽を」
今ではあまり話題に上らないのですが、当時は頻繁にラジオで流れていた、大ヒット曲。

この歌、母の唄声ではなく、ラジオで憶えたんです。
今この時、自分の心情にぴったり合っているような気がして、聴いているうちに涙がポロポロこぼれました。

「ながれる涙  あるかぎり まだ悲しみに  耐えられる♪」
私が15歳の夏、父が急逝したとき、涙は流れなかった。
母は、ショックと悲しみのあまり気を失い、私は死んだように横たわる母を抱きしめ、「どうやって、この家と母を護ればいいのだろう?」と、不安と絶望に震えていた。

それに比べたら、今はまだ余裕があるんだと思う。
でも、あんなに深く私を愛してくれた母の心は、少しずつ無機質になっていく。
いいえ、母の愛が消えてしまうと嘆くより、愛してあげよう、どこまでも。
今までいっぱい愛してくれたのだから、これからは私が精一杯愛してあげれば良いじゃないか。

それに、私には妻がいる、弟がいる、子供たちがいる、皆心強い味方なんだ。
ひとりじゃないんだ 負けるものか!
母に語りかけました。
「お母さん、大好きだよ、愛してるよ、オレ必ず、お母さんを護ってみせるからね」
「皆、お母さんの味方だからね、ひとりじゃないぞ 負けないぞ」
不安のため表情が消えてしまった母の顔に、かすかに微笑が戻ったように感じました。


○<あゆみの会>

「♪涙の谷間に太陽を」のジャケット内には次のように書いてあります。


西沢 爽 作詞
和田 香苗作曲
森岡賢一郎編曲

   涙の谷間に太陽を
     島倉千代子
     コロムビアゆりかご会
     コロムビア・オーケストラ

一. ながれる涙  あるかぎり
   まだ悲しみに  耐えられる
     あなたよ 心に燃えている
     若いいのちを 信じよう
   呼ぼうよ  呼ぼうよ  太陽を
   涙の谷間に  太陽を

二. 愛されないと 泣くよりも
   愛してゆこう どこまでも
     あなたよ この世を嘆くまい
     空の青さは 誰のもの
   呼ぼうよ 呼ぼうよ 太陽を
   涙の谷間に 太陽を

三. こがらしの道 つらくても
   ひとりじゃないぞ 負けないぞ
     あなたよ 明日の幸福は
     結ぶこの手に 花ひらく
   呼ぼうよ 呼ぼうよ 太陽を
   涙の谷間に 太陽を
   涙の谷間に 太陽を


ー「涙の谷間に太陽を」
        (小此木孝夫著 芸文社刊)よりー


以上EPシングルから
昭和41年10月発売 50万枚のヒット

二行目と三行目が一文字下げてあるのは、何か訳があるのでしょうか。「ひとりじゃないぞ 負けないぞ♪」と語りかけるような唄声が、とても優しい。

ー「涙の谷間に太陽を」(小此木孝夫著 芸文社刊)よりー

歌詞の後に書いてあるこの著書をみると、次のようなものでした。


Namidanotanimanitaiyouwo

小児マヒを克服したあゆみの記録
涙の谷間に太陽を
小此木孝夫
芸文社
昭和41年5月25日 1刷発行

目次
このあとに続くもの   城戸 禮
第一章 さげすまれ泣かされてばかりいた少年時代
第二章 土方から沖仲仕へと放浪の日は続く
第三章 ついに東大病院で手術を受ける
第四章 夜間高校マラソン通学の喜びと悲しみ
第五章 小児マヒの子どもに太陽を
あとがき


著者の小此木孝夫(おこのぎたかお)さんは昭和17年8月30日、群馬県に生まれる。

幼くして小児マヒに冒され、右半身に麻痺が残った。
そのため小・中学校時代、苛めぬかれ、自分の体のことを知らない人の間で生きようと家出する。

二年間、川崎、横浜などで不自由な体を引きずって土方や沖仲仕(おきなかせ)をしながら放浪し、その後東京に出て『斉藤工務店』に勤める。
働きながら治療費を貯め、昭和36年11月、東大病院で足の手術を受ける。

普通に歩けるようになったので、人より5年遅れて新宿高校の定時制に入学。
しかし右手は不自由なまま、そのため、好きな人が出来ても気持ちを打ち明けることすら叶わず絶望、自殺を企てる。

せめて、この世に生きた証を残したくて、全国の同病者のため募金活動を計画する。
より多くの募金を集めるため、芸能人の力を借りようと考えた彼は、八方手を尽した後、俳優の伴淳三郎さんと出会い、同じく小児マヒのため募金活動をしていることを知る。

当初は高校の仲間と募金活動をしていたが、自殺に失敗した後、「たすかったこの命を、小児マヒに悩む子供たちのために捧げよう」と決心し、募金の仲間たちと「会」を結成。
『あゆみの会』と命名された組織は、石原裕次郎さんのデザインと文字が入った「会旗」を贈られ、伴淳三郎さんの活動に協力する。
この発会式には石原さん、伴さんは出席できなかったが、日活の取計らいで松原智恵子さんが出席、新聞に報道される。
それは昭和39年、東京オリンピックも近い9月のことであった。

『あゆみの会』は全国的に有名になり、『小此木孝夫』の名も広く世間に知れ渡る。
だが彼の心はキリキリと痛んだ。
もともと、自分の体のことを隠して、知らない人の間で生きようと、家出したのである。
どのような形であれ、体の障害を世間の目にさらすのは辛かったのだ。

しかし、「それで『小児マヒ』が広く世間に認知され、病魔に苦しむ子供たちに救いの手が差しのべられるなら」と思いなおし、募金運動を続けた。

彼らが続けている募金は、昭和40年2月、伴淳三郎さん主催のチャリティショーで、箱をあけることになっていた。
それまでには、伴さんから新たにあずかった二十六個の箱も、必ずいっぱいにしようとがんばるのだった。

『あゆみの会』は伴さんの運動に協力するための組織だったが、彼はその後『青年あゆみの会』を発足する。
彼とその仲間たちが独立して運動を続けるための組織である。
次の世代にバトン・タッチしても運動を続けられるために。

彼の障害は、この本(涙の谷間に太陽を)でいっそう世間にさらされることになるだろう、それは辛いことだった。
しかし、苦い涙の記憶を書き終えて、逆にすがすがしい気持ちになり、明日への勇気がわいてくるのだった。

ー 完 ー
               

Sannkoutosyo

参考資料

この本を読んでピンときました。

島倉さんが唄った歌詞は、小此木青年の自伝そのものであり、「ひとりじゃないぞ 負けないぞ♪」と唄う部分は、年末に木枯らし吹く中、仲間といっしょにがんばった募金運動のことだと。

 

○「♪涙の谷間に太陽を」唄・島倉千代子

小此木孝夫さんと島倉千代子さんの接点はどこにあったのでしょうか?

彼は『歌手・島倉千代子』の熱狂的なファンであり、東京に来たその日、最初に「島倉千代子ショー」を観ています。
それどころか、東大病院に入院中の正月にも、こっそり病院を抜け出して「島倉千代子ショー」を観にいったほど。

そして、こんなことを言っているのです。

「あの人の歌を聞いていると、なぜか心にやすらぎをおぼえ、しあわせだった。かなしいとき、さびしいとき、あの人の歌を聞くと、かなしさも、さびしさも、拭われて、気持がやすらいでゆくのがわかる。」

「ぼくの千代ちゃん気狂いは有名で、斉藤工務店の仲間たちは、ぼくのことを千代子、千代子と呼んでいた。子供の頃はアダ名を呼ばれるのは何とも苦痛だったが、千代子というこのアダ名は、ぼくをくすぐったくさせるだけで、そんなにいやなものではなかった。」

芸能界と関わりがあり、マスメディアにも大きくとりあげられた小此木青年のことを、島倉さんは知っていたことでしょう。
「共感できること」を前提に唄うのが『歌手・島倉千代子』です。
『♪涙の谷間に太陽を』を歌うにあたり、この著書を読まれたに違いない。
ご自身も大怪我のため左手が不自由だったこと、実姉が小児マヒであったことなども考えると、涙を流しながら読んだかもしれない。

それでも私は想うのです、この曲は、辛い想いをしている全ての人を、励ますための歌だと。

私自身も昭和41年の初め頃まで、担任教師にひどいイジメられ方をして、死にたい気分だった(本気で死のうと思った)。
でも、この歌を憶えた頃には、意地悪教師からも解放されて、何となく気持ちが上向いた時でした。
当時は誰が歌っているのかさえ知らなかったけど、優しく、力強い唄声を聴いて、明るい未来を感じたものです。

島倉さんのイメージは「お母さん」です。

私の年代からすると、そこまで歳は離れていないし、世代によっては、また違った印象かもしれません。
でも、いま、また優しい唄声を聴くと、幼い子供に戻って、島倉さんにギュウって抱きしめられたい気分・・・

『♪涙の谷間に太陽を』コンサートバージョン
 
こちらは「あなたよ♪」と唄うところがとても優しい。
ステージの最後、アンコールに応えて唄う姿が、観客の手拍子が、大合唱が目に浮かぶ。
貴重な音源をアップしてくださった『norio2bo』さんに、感謝です。

この動画の説明欄には島倉さんの台詞が書かれています。
 
歌は 人と人との思い出をつなぐもの

歌は いつも あなたに思い出をつれてきます

歌ってください   あなたの思い出を

私も 思い出を歌い続けます

さよなら さようなら さようならー

                 
・・・さようなら、あなたのことは忘れません、いつまでも。
 
 
おしまい
          
           

「♪この世の花」

Photo

○誕生日のプレゼント

Photo
島倉千代子 60周年記念 スーパーヒット・セレクション
写真2枚とかわいいイラストのミニステッカー入り

私の母は、若い頃から島倉千代子さんが大好き。
私が物心ついた頃から、いつも「♪この世の花」を唄っていた。
くり返し聞かされて、フルコーラス憶えてしまったほどです(今でも歌えます)。

ということで、一昨年はCDラジカセ、去年の敬老の日は美空ひばりさんのBOX、今年は、このすばらしいアルバムがリリースされたので、7月の誕生日にプレゼントしました。

ところが、その頃から母は体調が優れず、8月になって入院。
さぞかし心細いだろうと、お気に入りのCDを、ヘッドホンステレオに詰め込み、病院へ持って行ったんです。
途中までは機嫌よく鼻歌を歌いながら聴いていたのですが、「♪この世の花」で声を詰まらせ、ぽろぽろ涙を流し、困った・・・

 

○蕾のままに 散った恋

話は変わりますが、ここでひとつ、実らなかった初恋のお話を聞いてほしいのです

終戦後ほどなく、朝鮮から引き上げてきた、一組の家族がおりました。
その中に、15歳の少年がいて、あだ名を『たきちゃん』と言います。
日本に帰ってきた『たきちゃん』は従兄弟の会社で、仕事を手伝いながら学校に通うことになりました。
歳の離れた従兄弟は村一番の富豪で、大きな工場と会社を持っていた。

この会社に、一人の少女が就職してきたのです。
歳は16、近くに住む、当時としては比較的裕福な農家の娘で、あだ名を「あいちゃん」と言います。

そして会社のお仕事で一緒になりました。
歳の近い二人はお互いが気になって仕方ありません。
ほとんど言葉を交わすこともなかったけれど、それぞれ、相手の視線を感じつつ、胸をときめかせていた。

そんな日々が続くうち、いつしか『たきちゃん』は、この一つ年上のお姉さんが、好きになってしまいました。
当時のことですから、気持ちを口に出したりしません。
でも、『あいちゃん』は感じたのです、『たきちゃん』の好意を。

彼女は恋をしました、生まれてはじめて経験する、不思議な気持ちです。
田んぼの藁束の影に身をひそめ、彼が友人と一緒に歩く姿を遠くからこっそり眺めました。
笑うと白い歯が爽やかな美少年、その姿を見ているだけで幸せだった。
そんなに遠くから見えたのかって?
見えましたとも、だって『あいちゃん』視力が2.0(笑)

二人は会社でしか話をすることはありませんでしたが、その気持ちは周りの大人たちにもわかります。
やがて公認の仲となりました。
あるとき、会社の裏手にある観音さまの夏祭りで、『たきちゃん』は飲み過ぎてしまいました(未成年なのに ^^;)。
社長は、『あいちゃん』に「介抱してやってくれ」といいます
彼は酩酊状態で一言も話をしてくれません、でも彼女にとって、このときが、人生で一番幸せな瞬間でした。
彼の手を握ったのは、このときが最初で最後です、たぶん。

私、『あいちゃん』に訊いてみたんです、「膝枕してあげたの?」。
『あいちゃん』は恥ずかしそうにうつむいて、首を横に振るだけです。

その後、一度だけ会社の外で会う機会があったそうです
『あいちゃん』の姉が結核で入院しているとき『たきちゃん』の兄も同じ病院に入院していた。
お見舞いのとき、偶然出会い、二人だけの時間を持つことができた。
二人は少し離れて座り、あまり話もしなかったけど、一緒にいるだけで幸せでした。

彼女が18歳のとき、家にお中人さんが来ました。
「『たきちゃん』の許婚(いいなずけ)に、ぜひ娘さんを」
私の勝手な考えですが、これは彼のプロポーズだったと想うのです。
当時、良家の子女は、人を立てて「想ひ」を伝えることは珍しいことではなかった。
『あいちゃん』はうれしかった、「あの人と一緒になれる」、そう想うと、未来がバラ色に見えた。

ところが、彼女が19歳のとき、事態が一変しました。
遠い親戚へ養女に出されてしまったのです。
そこには、やはり遠い親戚から養子に出された『みっちゃん』と呼ばれる男性がいて、その人と祝言(しゅうげん)を挙げることになった。
本人の意思とは全く関係なしです。

理由をここに書くことはできません、大勢の方々のプライバシーが関係しているので。

『あいちゃん』は何度も実家に逃げ帰りましたが、その度に、つれ戻されます。
唯一の救いは『みっちゃん』がとても優しい人だったこと。
「どうしても想いが叶わぬなら、この人でも良いかな?」と思ったそうです。

しかし二人は相当ひどい扱いを受けていたようで、満足に食事も与えられなかった。
そのため『みっちゃん』は家出を決意、「生活できるようになったら、必ず迎えに来るから」と言い残し、姿を消してしまいます。
養子先の家が彼を探さなかったのは『あいちゃん』さえ引き留めておけば、「そのうち彼も帰ってくるだろう」と思ったからです。

『みっちゃん』はそれまで、「バンドマン」をしていて、音楽で生計を立てていたのですが、静岡の片田舎では食べて行けないと、理髪師の免許を取った。
修行したくて、当時理髪師のメッカだった『神戸』を目指して列車に飛び乗ったのですが、家出の悲しさ、電車賃が足らず『名古屋』で降りた。
名古屋で住み込みの職人から始めて、一人前と認められるようになった頃、『あいちゃん』に毎日ラブレターを書いた。

「名古屋においで」

養子縁組した家に出すと、本人に渡らないと想い、彼女の実家に出したのです。
実家に里帰りした彼女はそれを見て「この人について行こう」と思ったそうです。
『たきちゃん』への想いは決して消えることはありませんでしたが、それを胸の奥にしまいこみ「みっちゃん ひと筋」の人生を決意し、家出したのでした、名古屋を目指して。

このお話は実話で『あいちゃん』と『みっちゃん』は私の両親です。

 

○「あの世の花」

なぜ、こんなプライベートな話を詳しく書いたか?

実は『あいちゃん』こと私の母が認知症になった。
今は息子である私の名前が出てきません。
自分の名前も言えなくなった。
早逝したとはいえ、20年連れ添った夫の名前さえも・・・
唯一鮮明に覚えているのは『たきちゃん』のことだけです。

息子としてはとても複雑な気持ちで、「初恋の人」の事なんか、きれいさっぱり忘れても良いから、夫(私の父)のことだけは覚えていてほしかった。

でも今『たきちゃん』のことまで忘れたら、母の人生には何も残らなくなってしまう。
今は、その想い出にすがりつきたい気分です。
もし、大切な想い出が消えてしまっても、「こんな人がいるんだなぁ」って、このブログを読んだ人に、知ってもらえたら幸いです。

私が「『たきちゃん』今どこにいるの?」と訊いたら、「・・・天国」と答え、ポロリと涙をこぼしました。
十余年前に、消息を確認したらしいのです。
ひととおり話をした後、母はポツリとつぶやきました。

「たきちゃん、かわいかった」

 

○島倉さんの「♪こどもたち」

Photo_2

「♪この世の花」

想うひとには 嫁がれず

想わぬひとの 言うまま気まま

悲しさこらえ 笑顔を見せて

散るもいじらし 初恋の花

 

私が生まれた年に、16歳だった(レコーディング時)島倉千代子さんが歌い、大ヒットしました。

歌謡曲史上最大のヒット曲は、500万枚を売り上げた「♪およげたいやきくん」だといわれていますが、昭和30年のレコードプレーヤー普及率を考えると、最大のヒット曲は「♪この世の花」かもしれません※。
私の母だけではなく、当時はこんな人がたくさんいて、共感を得たのだろうと想います。

自らが歌う歌謡曲の数々を「愛すべき こどもたち」と言い、生涯情熱を燃やし続けた島倉さん。

母が退院した翌日、アルバムに収められた36曲、すべて拝聴しました、どれも心にしみる歌ばかりです。
私はファンではないのですが、母があれほど好きだった理由(わけ)が、分かるような気がしました。

※昭和30年3月発売「♪この世の花」200万枚

着物姿っていいな

19676_2

副題:お正月といえば「晴れ着」ですよね

Photo

昭和40年代の中頃まで、私が住む名古屋市内では『名古屋祭り』や『成人式』などの祭日になると『花電車』が走っていたんです。
とっても華やかでゴージャスだったんですヨ。
子供のときは、それがお気に入りでよく見に行きました。

ところが、小学5年のとき、『花電車』を見に行った帰り、成人式のお姉さんとすれ違ったんです。
振袖姿の三人連れで、それはもう、とても艶やかで綺麗でした。
そのとき、想ったんです、「花電車より、こっちのほうがいいな」(^┰^ゞ
振り返って見てましたね~
たぶん、それが人生で最初に「着物姿っていいな」と感じたときです。

ということで、今回は、「晴れ着」を含む、お気に入りの「着物姿」を集めてみました。


1966

昭和41年2月 月刊明星

これです、これ!
私に「花電車より、こっちのほうがいいな」と思わせた三人連れが、こんな感じ(扇は持っていませんでしたが)。
う~ん・・・これぞ、お正月!!

S41_22

昭和41年・師走に撮影された写真

Photo_2

現在の銀座4丁目交差点

奥に見える円筒形の建物は『三愛ドリームセンター』。
昭和38年に竣工され、当時東京で一番人気のビルだったそうです。
つまり「一番人気の女性歌手」の背景に「一番人気の観光スポット」を掛けているんです。
銀座4丁目に行かれる事があったら、「ここで、園まりさんが椅子に掛けていたんだなぁ」って想像してみてね、リアルな妄想に浸れるかも^^。

1966_12

昭和41年12月 明星

お正月に『フラワー園』を覗いたら、こんな園まりさんに遇えたかも。

42112

昭和42年

「可愛い~~」としか言いようがありませんね。
見ているだけで、幸せ^^

1967

昭和42年1月 週刊現代

園まりさんには「生々しい実在感」がありますよね
放送局に見学に行ったら、局の廊下で遭遇しそう。
スタジオに行ったら、そこで番組の収録をしていそう。
考えただけで、ドキドキする。
赤坂の「tea room MARI」で逢えそう・・・なんて足げく通った人も多いのではないでしょうか?
現役で活躍されているうちに、一回くらい握手してみたいなぁ。

Photo_3

S44のアルバム『恋の宴は果てしなく』から

この頃から少しずつ、「可愛いらしい まりちゃん」から「正統派美人の園まりさん」にヘンシンしていきます。

S47_1_27

昭和47年

こんな感じ。
実は昭和46年ごろのアルバム「むせび泣く夜」に使われている写真が、絶世の美女なんです。
でも、あいにく着物姿じゃないので、またの機会に^^;

2014年1月5日追加

Cdbox

CD-BOX 『まりちゃんのア・ラ・カ・ル・ト』から

お気に入りの着物姿を一枚忘れてました。
現在販売中のものなので、はっきりと文字を入れてあります、悪しからず^^;
LPアルバム『愛をあなたに』に使われているものと同じ写真です。


Photo_4

昭和40年2月 家の光

カワイイ~!、ヨーロッパやアメリカ公演のとき子供にしか見られなかったというのがわかるような気がします。
小学生のとき、ピーナッツを見て、自分より15歳も上だなんて、夢にも想いませんでしたもん。

Photo_5

アルバム 祇園小唄から

ザ・ピーナッツは着物姿というより、舞妓さんが似合いますね。
その姿は幻想的で、園まりさんとは逆に「実在感が無い」ところが魅力です。
大きな存在感が実在感に結びつかなくて、エンターテイメントの世界にだけ存在する『妖精』を見ているよう。
現役時代、お茶の間には、空気のように自然に存在していたお二人なのに。


江利チエミさんは「ジャズシンガー」のイメージが強いのですが、本当は「日本髪に着物姿」がとても似合うのです。

Photo_6

「深川くずし」のジャケットから

もとは黄色のジャケットなんです。
派手すぎて目が疲れるので、モノトーンにしたら、こんなにステキな写真になった。
御園座の花道近くに陣取って「江利チエミ公演」を観たら、こんな姿を拝めそう・・・

3919

昭和39年1月 週刊平凡の表紙

実はこの右側にドレス姿のチエミさんが写っていて、そちらも貴婦人のように美しいんですけど、やっぱり、つぎの機会に^^;

Photo

15年くらい前でしょうか、飛騨高山に旅行した時、こんな光景見ましたね。
なんだか得した気分で、その日は一日中ウキウキしちゃいました。
江利チエミさんの着物姿を見ると「あぁ~、日本人に生まれてよかったぁ」って思いますね、これはもう、ほとんど「文化」です。


Photo_7

「アルバムすみだ川」から

いたじゃないですか、着物姿が似合う超大物が。
繊細で可憐な唄声に、優しく可愛いらしい人柄(特に晩年は)。
若い頃の写真には、こんなにりりしい姿もあるんですね。
たぶん昭和44年に撮った写真なので、30歳か31歳くらいでしょうか?
カッコイイなぁ。
だれだか判りますよね?


徒然なるままに、お気に入りの着物姿をUPしてみたのですが、こうして見ると、何か共通点があるような気がするんです。
「ステキだ」「カワイイ」「美しい」「歌手である」・・・そんな見ればわかるような表面的なことじゃないのです。
唄声かなぁ・・・それは間違い無いのですが、他にも何か共通する魅力があるのは確かです。

自信はありませんが、いい意味で「大御所感がない」ことかもしれません。
いずれも、芸能界のトップスターで、まばゆいばかりの煌きとオーラを感じるのに。

伝え聞くところによると、皆とても「心遣い」をされる方ばかりで、後輩からも慕われているようなのです。
たとえば、園まりさんのお話では「ザ・ピーナッツ」のお二人は本当に優しくてパーティーなどでもさりげなく心を配ってくれたらしいのです。

雪村いずみさんが言われるには、チエミさんは見かけによらず、とても繊細な心の持ち主で、いつも人のきもちを考える優しさを持った人だったみたいです。

島倉千代子さんなんて説明の必要もありませんよね。

でも、テレビで見ていても、普段はそんなこと感じなかったでしょ?
押し付けがましさがないのです。
控えめであり、繊細で優しい心が表情に表れているんじゃないかな~、なんて想います。

まあ、それは私の勝手な想像ですが、艶やかな着物姿でお正月気分を味わっていただけたでしょうか?

それでは、上の写真を目に焼き付けて、今晩はいい初夢を見ましょう!
(まりちゃんの初夢を見たいなぁ)

・・・おしまい