最近のトラックバック

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

家族

「♪涙の谷間に太陽を」

Shimakura_namidanotanimani

○ひとりじゃないぞ 負けないぞ

「あいちゃん」こと私の母は島倉千代子さんが大好き、若い頃は、いつも家事をしながら唄ってた。
数え切れないくらい、たくさん聞かされ、いつの間にか、私も島倉さんの歌を憶えました、今でも何曲かは歌えます。
幼い頃「お母さん、楽しいから歌っているの?」と訊いたら「悲しいから歌っているんだよ...(涙)」なんて言われて、ドン引きしたこともあったっけ。

その母が認知症になって3ヶ月、こんどは転んで骨折した。
肋骨3本と尾骨仙骨を痛めてしまったのです。
頭と体の両方がいうことを利かなくなって、しょげかえる母を見ていると、介護をしていても、辛くて、悲しくて、切なくて・・・
物忘れ外来の先生曰く「あまり動けないのなら、テレビや音楽で、出来るだけ脳を刺激してあげてください」とのこと。

それで、母が持っているCDを全部CDラジカセに詰め込み(最近MP3再生に対応しているのに気がついたんです)、聞かせる毎日。
その歌を聴きながら介護をしていて、蘇った記憶があります。
子供の頃に覚えた島倉さんの歌は、すべて母の唄声からと想い込んでいたのですが、一曲だけ自分で覚えた歌があった。

「♪涙の谷間に太陽を」
今ではあまり話題に上らないのですが、当時は頻繁にラジオで流れていた、大ヒット曲。

この歌、母の唄声ではなく、ラジオで憶えたんです。
今この時、自分の心情にぴったり合っているような気がして、聴いているうちに涙がポロポロこぼれました。

「ながれる涙  あるかぎり まだ悲しみに  耐えられる♪」
私が15歳の夏、父が急逝したとき、涙は流れなかった。
母は、ショックと悲しみのあまり気を失い、私は死んだように横たわる母を抱きしめ、「どうやって、この家と母を護ればいいのだろう?」と、不安と絶望に震えていた。

それに比べたら、今はまだ余裕があるんだと思う。
でも、あんなに深く私を愛してくれた母の心は、少しずつ無機質になっていく。
いいえ、母の愛が消えてしまうと嘆くより、愛してあげよう、どこまでも。
今までいっぱい愛してくれたのだから、これからは私が精一杯愛してあげれば良いじゃないか。

それに、私には妻がいる、弟がいる、子供たちがいる、皆心強い味方なんだ。
ひとりじゃないんだ 負けるものか!
母に語りかけました。
「お母さん、大好きだよ、愛してるよ、オレ必ず、お母さんを護ってみせるからね」
「皆、お母さんの味方だからね、ひとりじゃないぞ 負けないぞ」
不安のため表情が消えてしまった母の顔に、かすかに微笑が戻ったように感じました。


○<あゆみの会>

「♪涙の谷間に太陽を」のジャケット内には次のように書いてあります。


西沢 爽 作詞
和田 香苗作曲
森岡賢一郎編曲

   涙の谷間に太陽を
     島倉千代子
     コロムビアゆりかご会
     コロムビア・オーケストラ

一. ながれる涙  あるかぎり
   まだ悲しみに  耐えられる
     あなたよ 心に燃えている
     若いいのちを 信じよう
   呼ぼうよ  呼ぼうよ  太陽を
   涙の谷間に  太陽を

二. 愛されないと 泣くよりも
   愛してゆこう どこまでも
     あなたよ この世を嘆くまい
     空の青さは 誰のもの
   呼ぼうよ 呼ぼうよ 太陽を
   涙の谷間に 太陽を

三. こがらしの道 つらくても
   ひとりじゃないぞ 負けないぞ
     あなたよ 明日の幸福は
     結ぶこの手に 花ひらく
   呼ぼうよ 呼ぼうよ 太陽を
   涙の谷間に 太陽を
   涙の谷間に 太陽を


ー「涙の谷間に太陽を」
        (小此木孝夫著 芸文社刊)よりー


以上EPシングルから
昭和41年10月発売 50万枚のヒット

二行目と三行目が一文字下げてあるのは、何か訳があるのでしょうか。「ひとりじゃないぞ 負けないぞ♪」と語りかけるような唄声が、とても優しい。

ー「涙の谷間に太陽を」(小此木孝夫著 芸文社刊)よりー

歌詞の後に書いてあるこの著書をみると、次のようなものでした。


Namidanotanimanitaiyouwo

小児マヒを克服したあゆみの記録
涙の谷間に太陽を
小此木孝夫
芸文社
昭和41年5月25日 1刷発行

目次
このあとに続くもの   城戸 禮
第一章 さげすまれ泣かされてばかりいた少年時代
第二章 土方から沖仲仕へと放浪の日は続く
第三章 ついに東大病院で手術を受ける
第四章 夜間高校マラソン通学の喜びと悲しみ
第五章 小児マヒの子どもに太陽を
あとがき


著者の小此木孝夫(おこのぎたかお)さんは昭和17年8月30日、群馬県に生まれる。

幼くして小児マヒに冒され、右半身に麻痺が残った。
そのため小・中学校時代、苛めぬかれ、自分の体のことを知らない人の間で生きようと家出する。

二年間、川崎、横浜などで不自由な体を引きずって土方や沖仲仕(おきなかせ)をしながら放浪し、その後東京に出て『斉藤工務店』に勤める。
働きながら治療費を貯め、昭和36年11月、東大病院で足の手術を受ける。

普通に歩けるようになったので、人より5年遅れて新宿高校の定時制に入学。
しかし右手は不自由なまま、そのため、好きな人が出来ても気持ちを打ち明けることすら叶わず絶望、自殺を企てる。

せめて、この世に生きた証を残したくて、全国の同病者のため募金活動を計画する。
より多くの募金を集めるため、芸能人の力を借りようと考えた彼は、八方手を尽した後、俳優の伴淳三郎さんと出会い、同じく小児マヒのため募金活動をしていることを知る。

当初は高校の仲間と募金活動をしていたが、自殺に失敗した後、「たすかったこの命を、小児マヒに悩む子供たちのために捧げよう」と決心し、募金の仲間たちと「会」を結成。
『あゆみの会』と命名された組織は、石原裕次郎さんのデザインと文字が入った「会旗」を贈られ、伴淳三郎さんの活動に協力する。
この発会式には石原さん、伴さんは出席できなかったが、日活の取計らいで松原智恵子さんが出席、新聞に報道される。
それは昭和39年、東京オリンピックも近い9月のことであった。

『あゆみの会』は全国的に有名になり、『小此木孝夫』の名も広く世間に知れ渡る。
だが彼の心はキリキリと痛んだ。
もともと、自分の体のことを隠して、知らない人の間で生きようと、家出したのである。
どのような形であれ、体の障害を世間の目にさらすのは辛かったのだ。

しかし、「それで『小児マヒ』が広く世間に認知され、病魔に苦しむ子供たちに救いの手が差しのべられるなら」と思いなおし、募金運動を続けた。

彼らが続けている募金は、昭和40年2月、伴淳三郎さん主催のチャリティショーで、箱をあけることになっていた。
それまでには、伴さんから新たにあずかった二十六個の箱も、必ずいっぱいにしようとがんばるのだった。

『あゆみの会』は伴さんの運動に協力するための組織だったが、彼はその後『青年あゆみの会』を発足する。
彼とその仲間たちが独立して運動を続けるための組織である。
次の世代にバトン・タッチしても運動を続けられるために。

彼の障害は、この本(涙の谷間に太陽を)でいっそう世間にさらされることになるだろう、それは辛いことだった。
しかし、苦い涙の記憶を書き終えて、逆にすがすがしい気持ちになり、明日への勇気がわいてくるのだった。

ー 完 ー
               

Sannkoutosyo

参考資料

この本を読んでピンときました。

島倉さんが唄った歌詞は、小此木青年の自伝そのものであり、「ひとりじゃないぞ 負けないぞ♪」と唄う部分は、年末に木枯らし吹く中、仲間といっしょにがんばった募金運動のことだと。

 

○「♪涙の谷間に太陽を」唄・島倉千代子

小此木孝夫さんと島倉千代子さんの接点はどこにあったのでしょうか?

彼は『歌手・島倉千代子』の熱狂的なファンであり、東京に来たその日、最初に「島倉千代子ショー」を観ています。
それどころか、東大病院に入院中の正月にも、こっそり病院を抜け出して「島倉千代子ショー」を観にいったほど。

そして、こんなことを言っているのです。

「あの人の歌を聞いていると、なぜか心にやすらぎをおぼえ、しあわせだった。かなしいとき、さびしいとき、あの人の歌を聞くと、かなしさも、さびしさも、拭われて、気持がやすらいでゆくのがわかる。」

「ぼくの千代ちゃん気狂いは有名で、斉藤工務店の仲間たちは、ぼくのことを千代子、千代子と呼んでいた。子供の頃はアダ名を呼ばれるのは何とも苦痛だったが、千代子というこのアダ名は、ぼくをくすぐったくさせるだけで、そんなにいやなものではなかった。」

芸能界と関わりがあり、マスメディアにも大きくとりあげられた小此木青年のことを、島倉さんは知っていたことでしょう。
「共感できること」を前提に唄うのが『歌手・島倉千代子』です。
『♪涙の谷間に太陽を』を歌うにあたり、この著書を読まれたに違いない。
ご自身も大怪我のため左手が不自由だったこと、実姉が小児マヒであったことなども考えると、涙を流しながら読んだかもしれない。

それでも私は想うのです、この曲は、辛い想いをしている全ての人を、励ますための歌だと。

私自身も昭和41年の初め頃まで、担任教師にひどいイジメられ方をして、死にたい気分だった(本気で死のうと思った)。
でも、この歌を憶えた頃には、意地悪教師からも解放されて、何となく気持ちが上向いた時でした。
当時は誰が歌っているのかさえ知らなかったけど、優しく、力強い唄声を聴いて、明るい未来を感じたものです。

島倉さんのイメージは「お母さん」です。

私の年代からすると、そこまで歳は離れていないし、世代によっては、また違った印象かもしれません。
でも、いま、また優しい唄声を聴くと、幼い子供に戻って、島倉さんにギュウって抱きしめられたい気分・・・

『♪涙の谷間に太陽を』コンサートバージョン
 
こちらは「あなたよ♪」と唄うところがとても優しい。
ステージの最後、アンコールに応えて唄う姿が、観客の手拍子が、大合唱が目に浮かぶ。
貴重な音源をアップしてくださった『norio2bo』さんに、感謝です。

この動画の説明欄には島倉さんの台詞が書かれています。
 
歌は 人と人との思い出をつなぐもの

歌は いつも あなたに思い出をつれてきます

歌ってください   あなたの思い出を

私も 思い出を歌い続けます

さよなら さようなら さようならー

                 
・・・さようなら、あなたのことは忘れません、いつまでも。
 
 
おしまい
          
           

「♪この世の花」

Photo

○誕生日のプレゼント

Photo
島倉千代子 60周年記念 スーパーヒット・セレクション
写真2枚とかわいいイラストのミニステッカー入り

私の母は、若い頃から島倉千代子さんが大好き。
私が物心ついた頃から、いつも「♪この世の花」を唄っていた。
くり返し聞かされて、フルコーラス憶えてしまったほどです(今でも歌えます)。

ということで、一昨年はCDラジカセ、去年の敬老の日は美空ひばりさんのBOX、今年は、このすばらしいアルバムがリリースされたので、7月の誕生日にプレゼントしました。

ところが、その頃から母は体調が優れず、8月になって入院。
さぞかし心細いだろうと、お気に入りのCDを、ヘッドホンステレオに詰め込み、病院へ持って行ったんです。
途中までは機嫌よく鼻歌を歌いながら聴いていたのですが、「♪この世の花」で声を詰まらせ、ぽろぽろ涙を流し、困った・・・

 

○蕾のままに 散った恋

話は変わりますが、ここでひとつ、実らなかった初恋のお話を聞いてほしいのです

終戦後ほどなく、朝鮮から引き上げてきた、一組の家族がおりました。
その中に、15歳の少年がいて、あだ名を『たきちゃん』と言います。
日本に帰ってきた『たきちゃん』は従兄弟の会社で、仕事を手伝いながら学校に通うことになりました。
歳の離れた従兄弟は村一番の富豪で、大きな工場と会社を持っていた。

この会社に、一人の少女が就職してきたのです。
歳は16、近くに住む、当時としては比較的裕福な農家の娘で、あだ名を「あいちゃん」と言います。

そして会社のお仕事で一緒になりました。
歳の近い二人はお互いが気になって仕方ありません。
ほとんど言葉を交わすこともなかったけれど、それぞれ、相手の視線を感じつつ、胸をときめかせていた。

そんな日々が続くうち、いつしか『たきちゃん』は、この一つ年上のお姉さんが、好きになってしまいました。
当時のことですから、気持ちを口に出したりしません。
でも、『あいちゃん』は感じたのです、『たきちゃん』の好意を。

彼女は恋をしました、生まれてはじめて経験する、不思議な気持ちです。
田んぼの藁束の影に身をひそめ、彼が友人と一緒に歩く姿を遠くからこっそり眺めました。
笑うと白い歯が爽やかな美少年、その姿を見ているだけで幸せだった。
そんなに遠くから見えたのかって?
見えましたとも、だって『あいちゃん』視力が2.0(笑)

二人は会社でしか話をすることはありませんでしたが、その気持ちは周りの大人たちにもわかります。
やがて公認の仲となりました。
あるとき、会社の裏手にある観音さまの夏祭りで、『たきちゃん』は飲み過ぎてしまいました(未成年なのに ^^;)。
社長は、『あいちゃん』に「介抱してやってくれ」といいます
彼は酩酊状態で一言も話をしてくれません、でも彼女にとって、このときが、人生で一番幸せな瞬間でした。
彼の手を握ったのは、このときが最初で最後です、たぶん。

私、『あいちゃん』に訊いてみたんです、「膝枕してあげたの?」。
『あいちゃん』は恥ずかしそうにうつむいて、首を横に振るだけです。

その後、一度だけ会社の外で会う機会があったそうです
『あいちゃん』の姉が結核で入院しているとき『たきちゃん』の兄も同じ病院に入院していた。
お見舞いのとき、偶然出会い、二人だけの時間を持つことができた。
二人は少し離れて座り、あまり話もしなかったけど、一緒にいるだけで幸せでした。

彼女が18歳のとき、家にお中人さんが来ました。
「『たきちゃん』の許婚(いいなずけ)に、ぜひ娘さんを」
私の勝手な考えですが、これは彼のプロポーズだったと想うのです。
当時、良家の子女は、人を立てて「想ひ」を伝えることは珍しいことではなかった。
『あいちゃん』はうれしかった、「あの人と一緒になれる」、そう想うと、未来がバラ色に見えた。

ところが、彼女が19歳のとき、事態が一変しました。
遠い親戚へ養女に出されてしまったのです。
そこには、やはり遠い親戚から養子に出された『みっちゃん』と呼ばれる男性がいて、その人と祝言(しゅうげん)を挙げることになった。
本人の意思とは全く関係なしです。

理由をここに書くことはできません、大勢の方々のプライバシーが関係しているので。

『あいちゃん』は何度も実家に逃げ帰りましたが、その度に、つれ戻されます。
唯一の救いは『みっちゃん』がとても優しい人だったこと。
「どうしても想いが叶わぬなら、この人でも良いかな?」と思ったそうです。

しかし二人は相当ひどい扱いを受けていたようで、満足に食事も与えられなかった。
そのため『みっちゃん』は家出を決意、「生活できるようになったら、必ず迎えに来るから」と言い残し、姿を消してしまいます。
養子先の家が彼を探さなかったのは『あいちゃん』さえ引き留めておけば、「そのうち彼も帰ってくるだろう」と思ったからです。

『みっちゃん』はそれまで、「バンドマン」をしていて、音楽で生計を立てていたのですが、静岡の片田舎では食べて行けないと、理髪師の免許を取った。
修行したくて、当時理髪師のメッカだった『神戸』を目指して列車に飛び乗ったのですが、家出の悲しさ、電車賃が足らず『名古屋』で降りた。
名古屋で住み込みの職人から始めて、一人前と認められるようになった頃、『あいちゃん』に毎日ラブレターを書いた。

「名古屋においで」

養子縁組した家に出すと、本人に渡らないと想い、彼女の実家に出したのです。
実家に里帰りした彼女はそれを見て「この人について行こう」と思ったそうです。
『たきちゃん』への想いは決して消えることはありませんでしたが、それを胸の奥にしまいこみ「みっちゃん ひと筋」の人生を決意し、家出したのでした、名古屋を目指して。

このお話は実話で『あいちゃん』と『みっちゃん』は私の両親です。

 

○「あの世の花」

なぜ、こんなプライベートな話を詳しく書いたか?

実は『あいちゃん』こと私の母が認知症になった。
今は息子である私の名前が出てきません。
自分の名前も言えなくなった。
早逝したとはいえ、20年連れ添った夫の名前さえも・・・
唯一鮮明に覚えているのは『たきちゃん』のことだけです。

息子としてはとても複雑な気持ちで、「初恋の人」の事なんか、きれいさっぱり忘れても良いから、夫(私の父)のことだけは覚えていてほしかった。

でも今『たきちゃん』のことまで忘れたら、母の人生には何も残らなくなってしまう。
今は、その想い出にすがりつきたい気分です。
もし、大切な想い出が消えてしまっても、「こんな人がいるんだなぁ」って、このブログを読んだ人に、知ってもらえたら幸いです。

私が「『たきちゃん』今どこにいるの?」と訊いたら、「・・・天国」と答え、ポロリと涙をこぼしました。
十余年前に、消息を確認したらしいのです。
ひととおり話をした後、母はポツリとつぶやきました。

「たきちゃん、かわいかった」

 

○島倉さんの「♪こどもたち」

Photo_2

「♪この世の花」

想うひとには 嫁がれず

想わぬひとの 言うまま気まま

悲しさこらえ 笑顔を見せて

散るもいじらし 初恋の花

 

私が生まれた年に、16歳だった(レコーディング時)島倉千代子さんが歌い、大ヒットしました。

歌謡曲史上最大のヒット曲は、500万枚を売り上げた「♪およげたいやきくん」だといわれていますが、昭和30年のレコードプレーヤー普及率を考えると、最大のヒット曲は「♪この世の花」かもしれません※。
私の母だけではなく、当時はこんな人がたくさんいて、共感を得たのだろうと想います。

自らが歌う歌謡曲の数々を「愛すべき こどもたち」と言い、生涯情熱を燃やし続けた島倉さん。

母が退院した翌日、アルバムに収められた36曲、すべて拝聴しました、どれも心にしみる歌ばかりです。
私はファンではないのですが、母があれほど好きだった理由(わけ)が、分かるような気がしました。

※昭和30年3月発売「♪この世の花」200万枚

きよしあの夜

副題:誰でもあるんじゃないですか?

196312

もうすぐクリスマスですねぇ~。
毎年この時期になると、想い出すことがあるのですが...究極の私事なので、気の向いた方だけ読んで下さいね。

 

○きよしあの夜

30年近く前、私が家内とおつきあいしていた頃のお話しです。
当時私は、連日、サービス残業当たり前のハードな業務をしていて、彼女(←カミサンのこと)とデートもままならなかったのですが、クリスマス・イブだけは、何とかロマンチックにすごしたいと、頑張っておりました。

しかし、二日程前になると、案の定というか、残業の予定が入ってしまい、やむなく彼女に電話したのです。
「だいじょうぶよ、分かってるから、お仕事頑張ってね」そんな優しい言葉をもらい、安心して、イブの夜更けまで猛烈社員をしておりました。

しかし!

仕事の合間に、町の風景を眺めると、甘い雰囲気のカップルがそこかしこに見えるではありませんか。

心配になって、電話をしたら、すっかり落ち込んでました。
「ゴメン、明日は必ず迎えに行くから」そう言ってなぐさめたものです。
ホントは迎えに行ける見通しなんて、なかったのですけど(^_^;。

その日は深夜まで、かたづけられるだけ仕事をかたづけて、次の晩、カミサンの勤める花屋さんまで迎えに行きました。

そのとき、どういうわけか、お店の女の子たちが、“拍手”をしていたんですね。
車に乗って、二人だけになったとき、「あの拍手なに?」って聞いたのです。
そしたら彼女、なんて言ったと想います?

「昨日、彼が迎えにこなかったのは、わたしだけだったの、お店が忙しかったので、わたしだけ残業を引き受けたの、皆それを知っていたから」。

「惨めな想いをさせちゃった」、涙が出そうでした。
切なくて、愛おしくて、思い切り彼女を抱きしめたい気分だった。
その晩、私としては、精一杯ロマンチックな夜を演出したつもりです。
それでも、いまだに、あのときは申し訳ないことをしたと、思ってますけどね。

自分が、カミサンにこれだけの仕打ちをしておきながら、我が娘にはなんて言ってると想います?
「クリスマス・イブに迎えにこないような男を、選ぶんじゃないぞ」ってね(笑)。

そうなんです、私は身勝手で、煩悩まみれな男なんです(^^;ゞ。
でもね...煩悩まみれだって、一つだけ自信を持って言えることがあるのです。
園まりさんを、理想の女性像だとするならば、カミサンは私にとって『永遠の恋人』です。
将来、二人揃って、おじいちゃんとおばあちゃんになってもね^^。

 

○誰でもあるんじゃないですか?

最近、久しくお蔵入りになっていたDVDを、引っ張り出して観ました。
園まりさん主演「愛のきずな」。

藤田まことさんが演ずる、身勝手で、煩悩まみれの男『鈴木良平』と、かたや、園まりさん演ずる、清廉な娘『平井雪子』が、W不倫を繰り広げるのです(なんのこっちゃ?)。

実は私、この映画の感想を書きたくて、ウズウズしているのですが、他に類を見ない程、内容が深くて、今すぐというのは無理。
また機会があったらということで。

ところで、『良平』は、自分が妻子持ちであることをうち明けるシーンがあるんですね。
煩悩まみれのくせに、めっぽう真面目な顔で言うのです。
「僕はこの間 独身だって言いましたね」
「あれはウソなんだ」
「女房だけじゃない 子供もいるんだ」

Photo

それを聞いた、雪子の表情です。
これを観て、「どこかで見たことあるシーンだなぁ~」なんて想っちゃった。

上の「きよしあの夜」と大体同じ頃なのですが、当時私は、「この娘(カミサンですな)と結婚するかも?」といった予感が“確信”に変わりつつあった。
それで、自分の過去を黙ってちゃいけないと思い、うち明けたんです、ドライブの途中で。
「実は昔、真剣につきあっていた娘(こ)がいたんだ、でもきれいサッパリ別れて(ホントはフラれたんです)、今は君のことしか想っていない」。

そのときのカミサンが、ちょうどこんな表情だった。
そして彼女が言った言葉が、「わたしも最近まで、つきあっていた彼がいたの、でもあなたとつきあい始めたから、フッちゃった」。

えぇ゙~、それって一時的にせよ、二股かけられていたってことでは、ないの??。
ショーック!!

しかし、よく考えてみれば二人とも、恋愛の一つや二つ経験していてもおかしくない年齢で、薄々感づいていたのです、お互いに。
それでも、ハッキリ言われると、さすがに良い気分はしませんね。
カミサンも、きっと同じ気分だったんじゃないかな。

べつに、過去において、後ろめたいことをしていたワケじゃなし。
言わぬが花って事もあるのではないかと想います。
誰でも身に覚えがあるんじゃないですか?
こんなこと。

あ、そうそう、誤解されるといけないので、念のために言いますが、私たちはW不倫じゃありません。
正真正銘、独身同士の熱々カップルでしたので。

以上、自分でも顔から火が出そうな、おノロケ話でした(^┰^ゞ。

・・・おしまい