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「♪つゆの玉ころり」

副題:『童謡歌手・園部毬子』が住んでいた世界
           
2015年10月現在、園まりさんの公式ブログも充実してきて、最新情報に不自由する事はなくなりましたね。
そこで、逆に不自由しそうな情報、つまり最古のネタを書いてみようと思い立ちました。
    
今回は、園まりさんを中心に、童謡歌手の世界を少しだけお話ししようと思います。
なお、人名がたくさん出てきますので、文章を読みやすくするため、敬称を省略させていただきましたが、ここに名を上げた方たちは、皆憧憬の対象であり、決して軽んずる気持ちはありません。
                 
   Photo
○なぜ園部なのか?
            
副題を見た方は、「これ、誤字じゃないの?」と思われるかもしれません。
確かに園まりさんの公式サイトを見ると「キング児童合唱団に入団。本名の薗部毬子で童謡歌手、少女モデルとして活動。」となっています。
           
しかし、童謡関係資料を見ると、「園部毬子」となっているものが多い。
なぜ「薗」が「園」になってしまったのでしょうか?
それは「当用漢字が定められたいきさつ」にあるのかもしれません。
           
終戦後まもなくGHQから「漢字廃止」の要求があったという。
日本における漢字使用を制限し、ゆくゆくはアルファベット表記に統一しようとする政策指針である。
しかし日本側の強い抵抗と、社会的混乱を考え、当面用いる漢字を認め「当用漢字※」が定められたが、公に使用できる文字は大きく制限されてしまった。
          
※戦争に負けるとは、こういうことなんです。
文字どころか、公用語だって、占領国の言葉意外認められない可能性があったのです。
私が子供のころは、小学校でも「当用漢字」が教えられて、現在のような「常用漢字」なるものは無かった。
もし、言葉まで英語になっていたら、日本の古典文学や落語は木っ端微塵になっていたかもしれないし、「ムード歌謡」も生まれず、ポップスとオペラだけだったかもしれない。
            
で、「当用漢字」ですが、法令・公文書・テレビ・新聞・雑誌及び教科書等は基本的にこれを用いる事とし、固有名詞については異体字が存在しない、若しくは代替として適当な文字がない場合のみ「当用漢字」以外も使用可能となったらしい。
これに基づき『薗』は異体字の『園』を使う事に、『毬子』の『毬』は他の文字に代替することが適切でないためそのまま使用した」というのが私の推測なのですが如何でしょうか?
            
以下に参考になりそうなサイトのリンクを表示します。
                 
当用漢字表の実施に関する件(内閣訓令第7号。昭和21年11月16日) 
当用漢字表(内閣告示第32号。昭和21年11月16日) 
余談ですが、今年2月頃、ジャーナリストの池上彰さんも、テレビで似た様なことを言われていましたね(録画しなかったので、番組名など詳しいことは覚えていません)。
              
           
     
○キング児童合唱団
          
これについては、主に「童謡歌手からみた日本童謡史」(長田暁二/著 出版者 大月書店)を参考にしました(他の書籍やサイトも一部参考)。
         
Nihon_douyousi
          
著者の長田暁二氏は昭和28年2月、キングレコード童謡ディレクターに就任し、キング児童合唱団をプロデュースされた方です。
合唱団には常時100名以上の才能ある童謡歌手が登録されていましたが、実際にソロでレコーディングしたのは、一握りの有望歌手だけ。
園まりさんもその一人で「♪つゆの玉ころり」を吹き込んだときの担当も長田氏でした。
次に引用したのはその部分です。


長じてムード歌手として成功した園まりも園部毬子の本名で『つゆの玉ころり』を、高石かつ枝になった山崎宏子も『おひさまひかっている』を、日吉ミミとなった日吉順子も『谷の吊橋』という童謡を私の担当で吹き込んでいます。

これは長田氏の経歴からすれば、ほんの一部分にすぎないのですが、音楽業界(童謡界)の超大物プロデューサーであったことが想像できます。
次に彼が担当した童謡歌手の一部だけを紹介しますね、これがすごい。
      
近藤圭子
名実ともに、キング童謡歌手のトップスター
昭和18年3月18日生まれ、7歳でキングレコード専属作曲家・山本雅之に師事し、29年にキング専属歌手になる。
その後は長田氏が芸能界での親がわり。
ヒット曲に「♪海ほおずきの歌」「♪パン売りのロバさん」等。
テレビ時代を迎えた昭和30年ごろ、日本テレビの専属第一号タレント、そして東宝映画のニューフェイスとなり、人気は爆発、少女雑誌や週刊誌のグラビア・表紙を飾る。
    
スクリーンでは『透明人間』『宮本武蔵』、その後テレビでは『豹の眼』『快傑ハリマオ』でヒロインを演じる。
また、歌謡曲「♪私はおとなになったのよ」で童謡歌手を卒業、昭和38年NHKミュージカル『バリ島への道』で主役をつとめる等し、女優に転身する。
    
しかし、前途洋々だった昭和40年、ある事情で突然芸能界を引退してしまう。
しとやかだが、思いつめる性格だったらしく、長田氏いわく「そっとしておいてあげたい気持ちでいっぱいです」。
童謡歌手時代から、個人的な相談にものっていた氏にとって、彼女は実の娘のように、かわいい存在だったのかもしれません。
現在はハワイに移住し、幸せな家庭を築いているとのこと(1994.11.1現在)。
 
Photo_2
透明人間が唯一心を許す、盲目の少女・まり

Photo_3

「♪南十字星の歌」(『快傑ハリマオ』から)
        
    
小谷和子
近藤圭子以前の、キング童謡歌手トップスター。
長田氏によると、甘美な唄声には子供とは思えぬ色気があったという。
著書の中で彼は、テレビ時代の到来が遅かったことを、残念がっている。
「もう少し遅く生まれてくれば、その美貌からテレビ時代の寵児になっていたであろう」とのこと。
ヒット曲に「♪赤い郵便馬車」「♪さばくのランプ」等。
       
    
渡辺典子(女優の渡辺典子さんとは別人です)
音羽ゆりかご会から昭和30年1月にキングへ移籍
ストレートな歌い方で近藤圭子と人気を分かつ。
ヒット曲に「♪山鳥の啼く里」「♪ひばりの赤ちゃん」等。
   
    
井口小夜子
昭和14年「♪乙女十八」でデビュー。
ニッポン放送開局時に《歌のお姉さん》として幼児向け番組を持つ。
ヒット曲に「♪みかんの花咲く丘※」「♪月見草の花」「♪紅孔雀の歌」等。
(※川田正子さんより先にレコーディングされたそうです)
     
    
秋田喜美子
幼い頃から「音羽ゆりかご会」に所属、その後キングに。
ヒット曲に「♪あの子はたあれ」「♪土人のお祭り」等。
     
    
中根庸子
戦中、戦後と「♪船頭さん」を歌いヒットする。
他に「♪月見草の花」等。
後に民放の「キングアワー」のアナウンサーとして活躍。
     
    
高木淑子
おとなしい性格だったが、ソフトな発声が音楽の専門家・教育関係者・NHKなどから高く評価された。
ヒット曲に「♪ないしょ話」「♪グッドバイ」「♪赤い鳥小鳥」等。
     
    
他に、「♪かもめの船長さん」の北野修治、「♪ふしぎなポケット」の小川貴代乃、「♪月光仮面は誰でしょう」を歌った近藤善子・・・その他多すぎて全部は書けません(^^;
     
     
    
○歌のおばさん
     
「童謡歌手・園部毬子」のお師匠さんである安西愛子さんは『歌のおばさん』として有名です。
ところで『歌のお・ば・さ・ん』には裏話があるんです。
安西さんは、たいそう美しい方だったそうで、東京府立第五高等女学校時代、その爽やかさと美貌が評判の娘さんだった。
まずは、そんなエピソードから一つ・・・
     
国語学者の金田一春彦氏は旧制浦和高等学校時代、たまたま南阿佐ヶ谷の実家に戻ってきた時、道端で女学生の安西さんに出遇う。
彼女は金田一青年を見てニコリと微笑んでお辞儀をされた。
安西愛子さんと金田一氏は昔、阿佐ヶ谷童謡学園で顔見知りだったのです。
   
彼は、久しぶりに見た安西さんが目の覚めるような美少女に成長しているのを見て心奪われ、家に帰るなり、一世一代の恋文をしたためて、安西家の郵便受けに入れました。
そして、彼女からの手紙を寮で待ち侘びたのです。
ところが、一週間ほど後、金田一氏あてに届いたのは、裏に杉並第七小学校と言う印刷のある茶色の大きな封筒だった。
      
このお話の続きは→「金田一春彦が出した恋文のお返しとは」 
  
その安西さんはきれいなソプラノだったので、東京音楽学校声楽科に進み、浅野千鶴子などに師事、正しい発生・発音と正確な音程を身につけ、同校を卒業します。
   
彼女の日本語歌唱はすばらしかったそうで、「♪あゝ紅の血は燃ゆる」をヒットさせ、その後、「♪お山の杉の子」により、一躍全国的に知られます。
邪気の無い清純な歌声は快い調べとなって、戦時中のすさんだ国民の心をも癒し、大ヒットしたそうです。
   
子供が大好きだった安西さんは戦後児童合唱団を結成、「♪お山の杉の子」にちなんで『杉の子こども会』と名づけました。
            
Photo_4
『歌のおばさん』
          昭和24年8月1日からNHKは松田トシ・安西愛子の二人を起用、幼児向け歌番組『歌のおばさん』を開始しました。 これはGHQの命令により作らされたもので、アメリカで放送されていた『シンギング・レディー』という番組が参考にされたそうです。      それにしても若く美しい二人に『歌のお・ば・さ・ん』とは。 常識で考えると、失礼ではないかと想われるこの番組名、実はNHKでは放送を短期間で終わるつもりはなく、できることなら10年・20年と続けてもらいたいとの願いから、「20年後に『歌のおねえさん』では変だ」と、この番組名になったのだそうです。 つまり、お二人はそれほど信頼され、また期待されていたんですね。 この番組がどれほど国民の心を癒したかは、団塊世代から上の方なら、知っている人は多いと想います。      そして『うたのおばさん』が人気番組だった昭和29年、お父様につれられてやってきた、薗部毬子ちゃんが、『杉の子こども会』の門を叩いたのでした。                   
○愛娘に託した夢

栃木・群馬・埼玉にはなぜか薗部性が多く、栃木市には薗部町というところもあるんですね。
群馬県館林は薗部家にとって『ふるさと』ともいえる場所らしく、やはり薗部性が多い。
館林には深山ゆりさん(園さんの実姉)の本名と同姓同名の方もいらっしゃったりして、ちょっとびっくりします(偶然ですが)。
    
園まりさんのお父様はその群馬県館林の農家に生まれました。
農家とはいえ、裕福な家庭に育ったお父様は、当時としては文化的な生活をしていたのでしょう、若い頃はクラッシックが好きで、オペラ歌手を目指していた。
しかし、時期的に大東亜戦争を含む昭和6年から始まった『十五年戦争』と重なっており、夢を実現することは難しかったのではないかと想像されます。
そして終戦、薗部家は館林の実家に食料疎開し、オペラ歌手の道は遠のくばかり、お父様は自身が実現できなかった夢をいつしか愛娘に託すようになりました。
       

そして園まりさんは10才のとき、御茶ノ水にあった「杉の子こども会」に、いきなり連れて行かれました。
そこで入団試験にパスし、歌のおばさん(安西愛子先生)に師事することになったのです。
      
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昭和29年頃、パンフレットなどに使われていた写真
   
                 
Photo
その頃の伊東ゆかりさん、後に芸能界で親友となる
写真は進駐軍のステージにて
   
その後、お父様や、学校の先生から「歌手になった方がいい」と言われて『キング児童合唱団』に入り、昭和31年『園部毬子』名で「♪つゆの玉ころり」をレコーディングします。
当時、キング児童合唱団担当のディレクターは、上に書いた長田暁二氏で、童謡部門に関してはほとんど彼一人で決定していましたから、このレコーディングについても長田氏の考えでしょう。
   
しかしここで、驚くべき事実があるのです。
園まりさんご自身もご存知無いかもしれませんが、「♪つゆの玉ころり」をレコーディングしたのは『童謡歌手・園部毬子』だけではないのです。
それは同じキング童謡歌手のトップスターだった『小谷和子』でした。
いったい、どういうことでしょうか、園部毬子ちゃんのために作られたオリジナル曲ではなかったのか?
     
Sp
おしゃれの三毛猫;つゆの玉ころり
         
上のSPレコードは片面が「♪おしゃれの三毛猫/田口幸子」もう一面が「♪つゆの玉ころり/小谷和子」となっています。
『田口幸子』はこの時キングレコード所属でしたが、どちらかといえばビクターで活躍した歌手のようです。
     
長田暁二氏は「小谷和子があと少し遅く生まれていれば、或いはテレビ時代の到来がもう少し早ければ、その美貌からして時代の寵児になったであろう。甘美で歌謡曲的な唄声は、子供とは思えぬ色気があった。」と言います。
     
ここから先は、全て私の想像ですが、彼は『園部毬子』の中に『小谷和子』へと通ずるキャラクターを見たのではないか。
園まりさんが童謡歌手として活躍した時代は、テレビ時代の幕開けと重なります、『小谷和子』で成しえなかった事を実現しようと考えたのかも知れません。
しかし現実には、そんなにうまく行かなかった。
     
昭和30年代に週刊誌ブームが到来し、童謡歌手は表紙やグラビアを飾りアイドル化した。
童謡そのものよりも、豆スターの人気が先行し、各レコード会社とも大きなヒットが出なくなりました。
   
キングレコードも近藤圭子の容姿に目をつけ、彼女を中心に高木淑子、北野修治、渡辺典子、山崎宏子(後の高石かつ枝)、園部毬子(園まりさん)、刈屋ヒデ子等を起用、相当数の新譜を送り出したが、大きなヒットはせず、ヒットしてもその作品の寿命が短かく、ファンの記憶に長く留まる曲を出しえなかった。
   
どのレコード会社も童謡スターの人気にたより過ぎていたのです。
最もいけなかったのは、各社とも専属作家を抱え、同じコンビによる似たような作品作りを繰り返していたため、ファンにあきられてしまった。
そして30年代中ごろ、一級の童謡スターが変声期になって引退すると、実力ある後継者も現れず、『童謡歌手』というスターのジャンルは消滅してしまいました。
     
私は、小学校入学のお祝いに童謡のソノシートブックを買ってもらいました、昭和37年のことです。
それが変な代物で、ソノシートなのに45rpm、テープを早送りしたような寸詰まりの歌声なのです。
   
中学生になったとき、それを33rpmで再生してみたら普通に大人の声だった。
しかもそのうちの一曲が九重佑三子さんの声にソックリ!
それについて、本当のところはわかりませんが、少なくとも昭和37年頃すでに童謡歌手は絶滅状態だったのでしょう。
   
でも、高校生の頃、テレビで川田正子さんを見たことがあります。
戦時中に歌っていた人だから、当然お婆さんだろうと思っていたら、おどろくほど若く、オバサンというより、お姉さんの雰囲気だった。
   
普通、大人の歌手が歌う童謡は、教育的で押付けがましく、好きになれないのですが、川田さんの唄声は、聴いているとホッとするところがあり、素直な気持ちになれて、「ああ、童謡っていいなあ」と思った。
童謡の文化はブームを過ぎても静かに根付いて、脈々と続いていたんですね。
今そのCDは、母親のラジカセの中にあって、母の心を癒しています。
   
『童謡歌手・園部毬子』は紛れもなくスタアでした。
売り出したタイミングによっては、第二の小谷和子として時代の寵児となり、近藤圭子・渡辺典子等と人気を分かち合っていたかもしれない。
そして、『快傑ハリマオ』や『豹の眼』のような番組でヒロインを演じたかもしれない。
しかしその場合、「園まり・宮川コンビ」は生まれたでしょうか?
はたして『園まり節』が一世を風靡することになったでしょうか?
運命ってわからないものですよね。
・・・おしまい
         

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