最近のトラックバック

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »

2014年9月

本日(9月25日)のレア画像

○歌の手帖 p85
 
2011_11
歌の手帖2011年11月号
(発売日は9月25日)
 
歌の手帖をパラパラと見ていたら、偶然見つけた写真。
市販されている雑誌の記事を、そのまま載せるのは「まずい」と思い、控えていたのですが、いつの間にか販売終了になってました(現在はバックナンバーも手に入りません)。

3年前の今日発売されたこの本を所有している園まりファンは多いと想うのです。
それは園まりさんのオフィシャルサイトで紹介されたことがあるからなんですね。
「インタビュー記事掲載、2011年9月25日 (日)発売」と書かれていました。
だから当時は、我先にと皆競いあうように、求めたものです。
このブログでも、話のネタに使わせていただいたことがあって、たとえば「まりちゃんが見た夢のお話」はその記事が基になっています。


で、そのインタビュー記事は35ページに載っているんですが、上の写真は、それとは全く関係なく、85ページの片隅にひっそりと載っていました。
この雑誌をお持ちの方は開けてみてください、同じものがあったでしょ、でも今まで気がつかなかったと想うんです。
それもそのはず、だって目次に載ってないんだもん。

私、この衣装と表情がとても気に入ってしまい、このところ毎日写真を眺めながら、園まりさんが唄う「♪アヴェ・マリア」を想像してます...うわ!たまらん(^^ゞ
まりちゃんの「♪アヴェ・マリア」、聴いてみたいなぁ。

参考までに。
 
 
○芸術的 『表紙モデル』
 
Photo
                                                       
想わず「かっこいい~」って、ため息が出そうな写真。
きらめく夏の日差し、少し眩しそうに空を見上げる表情、シンクロナイズド・スイミングを連想させるポーズ。
なんて、爽やかなんでしょうか。

これは、昭和49年9月25日、ちょうど40年前の今日、発売された雑誌です。
何度か再販されたらしいので、雑誌としては珍しいものではありませんが、『園まり』で検索しても、現時点ではネット上に出てこないようです。
一目で、誰なのか、わかるのにね。

ただ、昭和49年(寅年です)といえば29~30歳だったはず。
その頃の写真を見ると、絶世の美女だけど、かなり大人びた雰囲気、でもこの写真はもっと若くて、初々しく見える。
どのような経緯で撮影されたものなのでしょうか、その手がかりはあるのです。
 
42
昭和42年8月 平凡パンチ (23歳の時)
ひろいものを無断転載なので、縮小してあります
 
 
「手がかり」というより、そのものですね(^^;
日本カメラの表紙と、同じとき同じ場所で撮影されたものだと想います。
たぶん、ほんの数秒の差でしょう。

平凡パンチに掲載するために撮影され、採用されなかったカットのうち、特に芸術的なものを、写真雑誌の表紙に流用したものと想われます。
プロ・アマを問わず写真家は、「芸術性」を大切にする人が多いようですが、彼らの要求を満たして、余りある美しさ。 

ところで私、ビーチやプールサイドで撮影された、園まりさんの画像と写真を数枚持っているのですが、その中には泳いでいる写真が一枚もありません。
アスリートのような引き締まった体型をしているので、泳ぐ姿もさぞかしカッコイイと想うんです。

でも、残念なことに、カナヅチだそうで、写真の隅っこに「泳げない」と書いてあるものがありました、意外でしょ。
小学四年のとき、臨海学校で溺れかけ、それがトラウマになって、泳ぎが苦手になったんですって、エピソードにはこと欠かないお方ですねぇ(笑)
 
 
・・・おしまい
 

「♪この世の花」

Photo

○誕生日のプレゼント

Photo
島倉千代子 60周年記念 スーパーヒット・セレクション
写真2枚とかわいいイラストのミニステッカー入り

私の母は、若い頃から島倉千代子さんが大好き。
私が物心ついた頃から、いつも「♪この世の花」を唄っていた。
くり返し聞かされて、フルコーラス憶えてしまったほどです(今でも歌えます)。

ということで、一昨年はCDラジカセ、去年の敬老の日は美空ひばりさんのBOX、今年は、このすばらしいアルバムがリリースされたので、7月の誕生日にプレゼントしました。

ところが、その頃から母は体調が優れず、8月になって入院。
さぞかし心細いだろうと、お気に入りのCDを、ヘッドホンステレオに詰め込み、病院へ持って行ったんです。
途中までは機嫌よく鼻歌を歌いながら聴いていたのですが、「♪この世の花」で声を詰まらせ、ぽろぽろ涙を流し、困った・・・

 

○蕾のままに 散った恋

話は変わりますが、ここでひとつ、実らなかった初恋のお話を聞いてほしいのです

終戦後ほどなく、朝鮮から引き上げてきた、一組の家族がおりました。
その中に、15歳の少年がいて、あだ名を『たきちゃん』と言います。
日本に帰ってきた『たきちゃん』は従兄弟の会社で、仕事を手伝いながら学校に通うことになりました。
歳の離れた従兄弟は村一番の富豪で、大きな工場と会社を持っていた。

この会社に、一人の少女が就職してきたのです。
歳は16、近くに住む、当時としては比較的裕福な農家の娘で、あだ名を「あいちゃん」と言います。

そして会社のお仕事で一緒になりました。
歳の近い二人はお互いが気になって仕方ありません。
ほとんど言葉を交わすこともなかったけれど、それぞれ、相手の視線を感じつつ、胸をときめかせていた。

そんな日々が続くうち、いつしか『たきちゃん』は、この一つ年上のお姉さんが、好きになってしまいました。
当時のことですから、気持ちを口に出したりしません。
でも、『あいちゃん』は感じたのです、『たきちゃん』の好意を。

彼女は恋をしました、生まれてはじめて経験する、不思議な気持ちです。
田んぼの藁束の影に身をひそめ、彼が友人と一緒に歩く姿を遠くからこっそり眺めました。
笑うと白い歯が爽やかな美少年、その姿を見ているだけで幸せだった。
そんなに遠くから見えたのかって?
見えましたとも、だって『あいちゃん』視力が2.0(笑)

二人は会社でしか話をすることはありませんでしたが、その気持ちは周りの大人たちにもわかります。
やがて公認の仲となりました。
あるとき、会社の裏手にある観音さまの夏祭りで、『たきちゃん』は飲み過ぎてしまいました(未成年なのに ^^;)。
社長は、『あいちゃん』に「介抱してやってくれ」といいます
彼は酩酊状態で一言も話をしてくれません、でも彼女にとって、このときが、人生で一番幸せな瞬間でした。
彼の手を握ったのは、このときが最初で最後です、たぶん。

私、『あいちゃん』に訊いてみたんです、「膝枕してあげたの?」。
『あいちゃん』は恥ずかしそうにうつむいて、首を横に振るだけです。

その後、一度だけ会社の外で会う機会があったそうです
『あいちゃん』の姉が結核で入院しているとき『たきちゃん』の兄も同じ病院に入院していた。
お見舞いのとき、偶然出会い、二人だけの時間を持つことができた。
二人は少し離れて座り、あまり話もしなかったけど、一緒にいるだけで幸せでした。

彼女が18歳のとき、家にお中人さんが来ました。
「『たきちゃん』の許婚(いいなずけ)に、ぜひ娘さんを」
私の勝手な考えですが、これは彼のプロポーズだったと想うのです。
当時、良家の子女は、人を立てて「想ひ」を伝えることは珍しいことではなかった。
『あいちゃん』はうれしかった、「あの人と一緒になれる」、そう想うと、未来がバラ色に見えた。

ところが、彼女が19歳のとき、事態が一変しました。
遠い親戚へ養女に出されてしまったのです。
そこには、やはり遠い親戚から養子に出された『みっちゃん』と呼ばれる男性がいて、その人と祝言(しゅうげん)を挙げることになった。
本人の意思とは全く関係なしです。

理由をここに書くことはできません、大勢の方々のプライバシーが関係しているので。

『あいちゃん』は何度も実家に逃げ帰りましたが、その度に、つれ戻されます。
唯一の救いは『みっちゃん』がとても優しい人だったこと。
「どうしても想いが叶わぬなら、この人でも良いかな?」と思ったそうです。

しかし二人は相当ひどい扱いを受けていたようで、満足に食事も与えられなかった。
そのため『みっちゃん』は家出を決意、「生活できるようになったら、必ず迎えに来るから」と言い残し、姿を消してしまいます。
養子先の家が彼を探さなかったのは『あいちゃん』さえ引き留めておけば、「そのうち彼も帰ってくるだろう」と思ったからです。

『みっちゃん』はそれまで、「バンドマン」をしていて、音楽で生計を立てていたのですが、静岡の片田舎では食べて行けないと、理髪師の免許を取った。
修行したくて、当時理髪師のメッカだった『神戸』を目指して列車に飛び乗ったのですが、家出の悲しさ、電車賃が足らず『名古屋』で降りた。
名古屋で住み込みの職人から始めて、一人前と認められるようになった頃、『あいちゃん』に毎日ラブレターを書いた。

「名古屋においで」

養子縁組した家に出すと、本人に渡らないと想い、彼女の実家に出したのです。
実家に里帰りした彼女はそれを見て「この人について行こう」と思ったそうです。
『たきちゃん』への想いは決して消えることはありませんでしたが、それを胸の奥にしまいこみ「みっちゃん ひと筋」の人生を決意し、家出したのでした、名古屋を目指して。

このお話は実話で『あいちゃん』と『みっちゃん』は私の両親です。

 

○「あの世の花」

なぜ、こんなプライベートな話を詳しく書いたか?

実は『あいちゃん』こと私の母が認知症になった。
今は息子である私の名前が出てきません。
自分の名前も言えなくなった。
早逝したとはいえ、20年連れ添った夫の名前さえも・・・
唯一鮮明に覚えているのは『たきちゃん』のことだけです。

息子としてはとても複雑な気持ちで、「初恋の人」の事なんか、きれいさっぱり忘れても良いから、夫(私の父)のことだけは覚えていてほしかった。

でも今『たきちゃん』のことまで忘れたら、母の人生には何も残らなくなってしまう。
今は、その想い出にすがりつきたい気分です。
もし、大切な想い出が消えてしまっても、「こんな人がいるんだなぁ」って、このブログを読んだ人に、知ってもらえたら幸いです。

私が「『たきちゃん』今どこにいるの?」と訊いたら、「・・・天国」と答え、ポロリと涙をこぼしました。
十余年前に、消息を確認したらしいのです。
ひととおり話をした後、母はポツリとつぶやきました。

「たきちゃん、かわいかった」

 

○島倉さんの「♪こどもたち」

Photo_2

「♪この世の花」

想うひとには 嫁がれず

想わぬひとの 言うまま気まま

悲しさこらえ 笑顔を見せて

散るもいじらし 初恋の花

 

私が生まれた年に、16歳だった(レコーディング時)島倉千代子さんが歌い、大ヒットしました。

歌謡曲史上最大のヒット曲は、500万枚を売り上げた「♪およげたいやきくん」だといわれていますが、昭和30年のレコードプレーヤー普及率を考えると、最大のヒット曲は「♪この世の花」かもしれません※。
私の母だけではなく、当時はこんな人がたくさんいて、共感を得たのだろうと想います。

自らが歌う歌謡曲の数々を「愛すべき こどもたち」と言い、生涯情熱を燃やし続けた島倉さん。

母が退院した翌日、アルバムに収められた36曲、すべて拝聴しました、どれも心にしみる歌ばかりです。
私はファンではないのですが、母があれほど好きだった理由(わけ)が、分かるような気がしました。

※昭和30年3月発売「♪この世の花」200万枚

« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »