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歌の語り部

副題:「♪もう一度逢いたくて」

私、先月、胆石(胆のう切除)で10日間ほど入院しましてね。
もっとも、計画入院だったので、準備万端整えて、必要なものを持ってはいきました。
もちろん、お気に入りのCDと以前「5冊のアルバム」で紹介した音声ファイルもプレイヤーに詰め込んで。
 
Photo
乾電池式プレイヤーと入れていったCD
 
入院中は充電が難しいので、乾電池で動くプレイヤーにしましたが、これは本来録音機なので、容量が足らない。
上のCDも全部は入らないので、選曲に苦労しました。
でも、そのかいあって、癒されましたね~、本当に癒された。
 
普段ではありえないくらい、いっぱい聴きましたよ、乾電池10回も交換しましたもん。
それで気がついたことがあるので、書いておこうかなと思います。
 
Photo_2
「♪もう一度逢いたくて」のCD
 
一番癒されたのが、このCD、「♪もう一度逢いたくて」。
園まりさんの声が、たまらなく優しいのです。
看護師さんから鎮痛剤はもらったんですが、なかなか寝つかれないので、一晩中繰り返し聴いてました。
聴きながら想ったのですが、この曲、純粋なエンターテイメントとは、ちょっと違うなぁ・・・ってことです。
 
音楽として直接楽しむ部分もあるのですが、「まりちゃんの心」に共感し、それによって癒されるための曲であるといえます。
魂に直接迫る部分がある、と言えばいいのでしょうか。
娯楽的要素はむしろ、カップリング曲の「♪それぞれめぐり逢い」のほうが強いといえます。
 
いきなりこんなこと書いても、「こいつ、なに言ってんだ?」って思われますよね。
実は、私もそう感じられるようになるまでに、何百回も聴いたんですが、もっと短い時間で同じ感覚を得ることも出来るんです。
それを今からお話ししますから、おひまなら、読んでくださいね^^)
 
 
○「♪もう一度逢いたくて」がレコーディングされるまで
 
この曲ができたいきさつは、以前「まりちゃんが見た夢のお話」で書いたことがあるんですが、覚えてますか?
「ある冬の日、園まりさんは夢を見ました・・・」で始まるあの文章です。
そう、きっかけは、園まりさんが見た「夢」でしたね。
 
CDが発売されたのは2011年夏ですから「ある冬の日」はその前の冬だと想われたかもしれませんが、実はそうじゃない...
その前の前の冬、正確に言うと2010年1月。
つまり、CDとして発売するために作曲されたのではなく、ステージソングとして作られ、以前から歌われていたのです。
 
園まりさんは、こういったステージソングの他にも「♪アンチェインド・メロディ」や「♪アヴェマリア」など、カバー曲のレパートリーもたくさん持っていて、バースデーコンサート等でなければ聴けない曲もあるみたいです。
そういった中から出てきた一曲なんですね。
 
そして「♪もう一度逢いたくて」の評判がよかったので、CD化しようとなったのではないでしょうか。
それと、園まりさんご自身に、ある想いがあって、それを望まれたのかもしれません。
 
 
○「やっと 本当は 尽くしてゆきたいと♪」
 
 
この歌は「あの頃 私は あなたといるだけで・・・恋の涙 知ってゆくのね♪」と歌っていて、昔別れてしまった彼に、心の中で語りかける歌詞です。
しかし園まりさんは、もっと広い意味で歌っている。
ご自身の人生を通り過ぎて行った大切な人たちが、走馬灯のように浮かぶのを見つめながら、唄っているように聞こえるのです。
それは、恩師であった作詞家・作曲家の先生方、先輩、恋人、親友、亡くなってしまったご家族であろうと想われます。
 
歌詞の後半、同じフレーズが二度出てきます。
「やっと 本当は 尽くしてゆきたいと~愛の意味を 知ってゆくのね♪」。
このなかで、最初の「それが 私の 願いだと気づいたの♪」あたりからです。
決して声を張り上げて歌っているわけではありませんが、深いビブラートの中から、感情がほとばしり出ていて、「絶唱」している。
そして、二度目の「やっと 本当は♪」でクライマックスに達する。
ここからが、私にはどうしても、今は亡きお姉さんの姿を浮かべながら歌っているとしか想えないのです。
「お姉さん!」って呼びかけているように聞こえるのです。
 
 
○園まりさんとお姉さんのこと
 
園まりさんは終戦の前年(昭和19年)、横浜市の保土ヶ谷に薗部家の次女として生まれました。
終戦後しばらく、庶民は窮乏生活を強いられ、ヤミ米を手に入れなければ、餓死しかねない有様だったようです。
薗部家も例外ではなく、群馬県の片田舎(お父様の実家)に食料疎開します。
 
その田舎で三歳の時、外で遊んでいて大怪我をしました。
このいきさつには、「木登りをしていて落ちた」「池に落ちた」「年長の子におんぶされていて、振り落とされた」など、いろんな説があって本当のところは、はっきりしません。
ご本人が、まだもの心つくかつかないかの幼いときであったこと、その場に大人がいなかったかもしれないことなど、事情があるんでしょう。
 
何れにしても、左ひじ関節骨折の重傷です。
病院で手当ては受けますが、終戦後間もないことですから、十分な治療を受けるのも難しく、ひじは固まり、腕が伸びなくなってしまいます。
 
Photo_3
深山ゆりさんと
 
一歳上のお姉さん(深山ゆりさん)とは、幼いころから仲よし姉妹、少女時代は一緒にいることが多かったでしょう。
姉は片腕が不自由な妹をかばい、妹は姉に甘える。
しかし二人にとって、それは自然なことで、とくに意識することはなかったであろうと想われます。
母と姉に見守られ、園まりさんは明るく、ちょっとやんちゃな少女に育ちます。
ケムシやイモムシが大好き、家に持ち帰っては、お母様をふるえ上がらせたって(笑)
 
東京の小学校に入学したばかりのころ、大病院でひじの手術を受けます。
手術は成功しましたが、一ヶ月の長期入院。
本当に大変なのは、退院してからでした。
入院中に勉強は遅れ、大きなギプスで洋服は着られず、着物の上に羽織で通学。
目立つ存在に、このころから同級生によるイジメが始まったようです。
いじめられている最中「わたしは、意地悪だけは絶対にしない!」と幼心に誓ったそうですから、相当つらい体験だったのでしょう。
お姉さんとは同じ学校でも一学年違うだけで別々、姉と一緒ではない心細さを初めて味わったのではないかと想像されます。
 
のちに深山ゆりさんは『SKD』に、園まりさんは、『杉の子こども会』から『キング児童合唱団』へと別々の道を歩みますが、ハイティーンのころ、二人の運命はまた合流します。
昭和36年、園さんが17歳で渡辺プロダクションに入社したとき、そこにお姉さんがいました。
でもナベプロに入社して、すぐ歌手デビューしたわけではありません。
芸能人として、感性に磨きをかける必要があったからです。
 
当時、六本木に集まる若者たちで構成する『野獣会』というのがあって、二人もそこに顔を出すようになります。
ちなみにこの『野獣会』、すぎやまこういち氏が作ったことになっているらしいのですが、私はナベプロの副社長、渡邊美佐さんが若手芸能人のスカウト場所兼養成の場として、企画したのではないかと想っているんです。
 
それはともかく、野獣会のメンバーが集まるイタリアン・レストラン『キャンティ』にも、「ゆり・まり」コンビは、ちょくちょく顔を出していたのではないのか知らん。
お二人にとって、一番楽しい時期だったかもしれませんね。
 
 
また、あるとき、園まりさんが名古屋御園座に出演した初日、衣装担当のスタッフが不慣れなせいもあって、早替わりが間に合わなくなったことがあるらしいのです。
そのとき、ゆりさんは、とっさに舞台中央に出て日本舞踊を披露し、場を繋いだ。
台本にはないアドリブです、舞台女優とはいえ、いい度胸してますねぇ。
いや、それ以上に『園まり』を護ろうと、必至だったんでしょうね。
 
 
園さんが開店休業状態だった1998年の晩秋、お父様の肺がんが判明。
そして翌年のお正月、容体は急変し、急きょ入院します、病状は進んでいました。
ところが、それから一月も経たないうちに、こんどは弟さんが急病で亡くなります。
お父様は相当ショックを受けられたようで、後に亡き弟さんに書いた手紙が見つかったそうです。
震える文字が涙で滲む便箋。
「オレをおいて、なぜ先に逝った・・・」
 
弟の急逝に父の末期がん、お母様と園まりさんは絶望の淵に立たされますが、そこに心強い助けが現れます。
当時、地方都市に住んでいたお姉さんが上京したのです。
幼いころから、父親の操り人形のように生きて来ざるを得なかった園さんの心の中には、わだかまりもあったのですが、お姉さんと二人協力して「父に尽そう」と決意します。
 
愛娘二人に介護され、少しずつ心穏やかになる父。
お父様は見事に変わって行かれたそうです、「敬愛できる父」に。
このことについては、先月「5冊のアルバム」に書いたとおりなのですが、父娘の絆を取り戻し、しっかりと心を繋いで、悔いを残さず旅立ち、送ることが出来たと言われます。
 
 
2003年ごろからお姉さんは園まりさんの付き人、スタッフとして、また家族として、仕事をサポートするようになります。
それからしばらくの時が経ち2008年、園さんは乳がんの手術で入院、その後無事退院となりましたが、そのとき自宅の寝室はベッドの上まで衣装でギッシリ、寝る場所もなかった。
カムバック後、ちょうどお仕事が順調に増えてきた時期でしたからね。
 
それを見たお姉さんは、こう言われたそうです。
「私のベッドで寝なさい、私は下で寝るから」。
たぶん、ソファか床で休まれたんでしょうねぇ、うわ~優しすぎる。
私、深山ゆりさんの、顔と名前くらいしか知らなかったんですが、このお話を聞いて、好きになっちゃった。
 
しかし、そのお姉さんも2011年1月、病で急逝されたのです。
撮りためた映像を見ると、当時の園まりさんは細い、やつれている。
元気に振舞ってはいるのですが、足元がおぼつかなくて、憔悴しているのが判るんです。
精神的ショックがとても大きかったこと、お母様の介護など、それまでお姉さんに助けられていた部分を全部一人で背負わなければならなくなり、負担が倍増したことで、二重に大変だったと想う。
 
そのころ自分は、ニューシングル「♪もう一度逢いたくて」がリリースされたことに浮かれてしまい、まったく気がつきませんでした。
テレビのこちら側とむこう側じゃ、どうしようもないのですが、今にして思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 
 
「姉からは、いっぱい与えられ、助けられたのに、わたしからは何もしてあげられなかった」と語る園まりさん。
「悔いが残る、もっと尽せばよかった」と。
そしてこう言われます。
「"もう一度逢いたくて"という言葉が心に迫ってくるようになりました」「歌の中から、"もう一度生きなおしなさい"って姉の声が聞こえるような気がするんです」。
 
 
○大震災のこと
 
Photo_4
園まりさん、鎌田實氏と石巻へ
 
お姉さんが亡くなられた年の3月11日、東日本大震災がありました。
その3年前、テレビ番組「田舎に泊まろう」で、園まりさんは被災地、石巻にある、一軒のお宅に泊めていただき、ご家族と心温まる交流があったそうです。
しかし、震災があってからは、如何されているのか分からず、気になって仕方がありません。
連絡を取ることもままならず、悶々としているとき、公式サイトを通じて、お孫さんからメッセージをもらい、やっと安否が確認できたそうです。
 
ところが、現地を訪ねると、あまりの惨状に声も出ません。
石巻のご家族と再会を約束し、被災地をあとにします。
その後、支援活動をしていた医師の鎌田實さんからオファーがあり、石巻の避難所になっていた文化施設「ビッグバン」でボランティアコンサートを開くことができたのです。
コンサートの日、鎌田さんは、被災地を見つめる園さんの瞳に、涙を見ました。
家を、家族を、親友を失った人たちの心を、肌で感じていたのでしょう。
とても他人事とは思えなかったんです。
 
 
園まりさんは、お姉さんのこと、震災のことを想うとき、「この人生、この世の中、いつ、何があってもおかしくない」と考えるようになりました。
今は、「何があっても、悔いのない生き方」を大切にしています。
今逢える人を大切にしたい。
逢えなくなってから後悔したくない。
そして『一期一会』という言葉を大切にします。
今日、ステージを観に来てくれたファンと、次いつ逢えるかわからない。
だから精一杯、歌で尽したい。
歌に、ステージに、人生に、いつも自己ベストを目指しているのです。
 
 
・・・ここまで読んだら「♪もう一度逢いたくて」を聴いてみてね 。
それは主に歌の後半にあります、ですからCDでフルコーラス聴いてほしいのです。
ほら、何か感じ取れるでしょう。
「まりちゃんの魂」が。
歌詞の中には書かれていないけれど、声の中に滲み出ている園まりさんの心を感じとるのです。
言葉では通じきれない何かを歌に託すのが、「歌手:園まり」なのですから。
 
 
・・・おしまい
 
 

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