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2012年6月

エミちゃん...

Photo_3

先ほど、園まりさんのBBSを覗き、中日新聞の記事を見て愕然としました。
ザ・ピーナッツの伊藤エミさん(ホクロのあるお姉さん)が亡くなられたと書かれていましたので。

今は亡き父は、お二人のファンだったのか、私がもの心ついた頃から、よく話をしてくれました。
名古屋出身の歌手だと聞かされ、通っていた学校も我が家の近くだったと知って、親近感を持ちました。
そして、成人式を迎える直前まで、ザ・ピーナッツの歌を聴いて育ちました。
お二人が引退された、そのときまで。

私は「ピーナッツ・ファン」というわけではないし『日出ちゃん』と呼んだことすらありませんが、それでも、今は悲しくて、言葉が見つかりません。

唯唯ご冥福をお祈りするばかりです。

2012年6月28日

宮川泰先生のコメント

去年、2011年12月、園まりさんは『月刊がんサポート』の企画で、医師の鎌田實さんと対談されました。
乳がんに罹り、手術を乗り越え、その後のケアに励む有名人として、白羽の矢が立ったのでしょう。

その鎌田先生の印象なのですが、著書やブログから想像されるような、雄弁な方というより、優しさと誠実感が漂う方で、それでいながら、強い意志を感じるタイプとみました。

どうです、ちょっぴり園まりさんとの共通点を感じませんか?

Photo

鎌田さんは園まりさんのことを「おもしろい人」といい、誠実な人柄とあわせて、大変気に入ったようです。
もしかすると、まりさんの感性が鎌田さんの琴線に触れたんでしょうかね。
個人的な感想を言わせてもらえば、鎌田さんは、園さんを「かわいい人だな」と感じたのではないかと想うのですが、どうなんでしょうか?
まりさんを「おちゃめ」と表現される一言の中に、それが現れているような気がするのです。

Photo_2

ところで、50年も前から、同じように、園まりさんをとても気に入っていた人物が、もう一人。
誰あろう、それは、宮川泰先生です。
まりさんが全盛期の頃、宮川先生が、こんなふうにコメントを出されていますので、少しだけ、抜粋で載せちゃいます(^^;ゞ 。

 

42

園まり「愛のアルバム」から


宮川泰/まりちゃんのこと

まだ私が手がけたばかりの彼女は、大声高音をはりあげて、ポピュラーを歌っていた。
その彼女がオリジナルを歌うようになり、声をおさえ、しんみりしたお色気を秘めて現在の『まり節』を作り出すのは、彼女にとって一大事業であっただろう。
それを伝授した僕にとってもかなり《しんどい》ことと想えたものだ。
それがかくもスムーズに成功したのは、まさに彼女の勉強熱心さのおかげといっていい。
それは 教えたものを素直にこなす彼女の心の柔軟さだ。
彼女に教えることは僕にとっても楽しいものだった。
苦労を楽しさに変える、そんなすばらしい魅力を彼女は持っているのである。
恋や愛を歌う、このほんのりしたお色気の優等生は、しかし実生活では無邪気で頭の良い一女性である。
彼女の感性の豊かさ、人間性のひろさがなせるわざだろう。


どうも、まりさんは、宮川先生の前でも「おちゃめ」だったみたいですね。
そして、真面目で、熱心で、素直だった。
《彼女に教えることは僕にとっても楽しいものだった》
そりゃ楽しかったと想います。
明るくて、面白くて、才能溢れる弟子だったでしょうから

古い雑誌の対談記事などを見ると、物静かな印象の園まりさんが、意外にもお喋りでリードをすることが多かったようです。
男性芸能人が相手だと、少し人見知りを感じるのですが、同年代の女性歌手の時なんて、喋る喋る。
陽気で、楽しくて、お喋り好きなのは、どうも今に始まったことではなさそう。
そして、お喋り好き以上に、聞き上手でもあるようです。
僅かに身を乗り出すように聴く癖があって、チョッピリ上目遣いに相手の顔をのぞき込んだりして。
うなずきながら「そうです そうです」、頬に手をあてて「え~そうなんですかぁ(ビックリ)」なんてね。
これじゃ、話あいては「イチコロ」です(特に男性は^^)。

こういった人柄は、まりさんが「普通のオバサン」をしていたとき、大きな力になったのではないでしょうか。
芸能界から遠ざかり、人生を見つめ直していた頃のことです。
一般の方と交流し、お友達が沢山できたであろうことは、容易に想像できます。
そのときできた『親友』はまりさんが芸能界に戻った今でも、心強い支えになってくれているのだろうと想います。

と云うことで、ステージを降りた、「素顔の園まり」にも、すごく関心あります。
一人の人間として、とても魅力的なんだろうと想うのですが、なにぶんにも想像することしかできません。
それだけに、憧れますね~、一度で良いから楽屋を訪ねてみたい...
ウソウソ、そんなことしたら、ストーカーですから、絶対ありません×(^^ゞ。

園まりさんご本人がネットをされないことを知ってから、見られる心配がないのを良いことに、最近は言いたい放題(書きたい放題)ですな。
そのうち誰かに怒られそう(^_^;。

・・・おしまい

デジャブ

副題:慕情

Photo

このページに書いてあることは、全て私の心の中で起きている出来事です。
つまり、究極の私事なのですが「それでも、話を聞いてやるぞ」という、心の広い方だけ読んで下さい(^^ゞ。

私、園まりさんの声に、デジャブを感じることがあります。
普通、デジャブには違和感があり、あまり愉快なものではありませんが、園まりさんのそれは郷愁を感じて、なかなか気持ちの良いものです。
殆どの場合、視覚を伴わないので、そのように言って良いものかどうかは、わかりませんが。

何十年かぶりに、まりさんのレコード(もとい、CD)を手にし、その中の『♪銀座のキューピット』を聴いたとき、「あ!懐かしい、この曲、園まりさんが歌ってたんだ」と思ったことがあります。
「誰か誰か 誰でも良いわ・・・銀座のキューピット♪」と唄うフレーズに聴き覚えがあったから。
遠い遠い昔、幼い日、スポットで流れているのを、何度も聴いたような気がしたのです。

しかし最近、あのとき感じた郷愁感は『デジャブ』だったのではないかと考えるようになりました。
『♪銀座のキューピット』はシングル『♪ひなげしの花咲けば』のB面であり、繰り返しスポットで流れることなど考えにくい。
もしかしたら、他の歌手が競作していたのだろうかとも想いましたが、作詞・作曲はポリドール専属の方であり、他のレコード会社との競作は考えに難いし、同じレーベルならもっとあり得ない。
そしてもう一つは、他にも、確実にデジャブなのだと言える体験をしているから。
それは『♪何も云わないで』が大ヒットしていたときでした。

当時私は小学3年でしたが、ひどいイジメに遭い、そのためのストレスからくる長期の腹痛と下痢のため、健康診断で栄養失調を指摘されるなど、心身共にボロボロでした。
実際、2年間で身長が2センチしか伸びなかった。
私には、心休まる場所が必要だったのです。
秋深まり、夜などひんやりした感触があって、いよいよ心細くなったある日、それは突然「神のお告げ」のように感じられた。
「今は何も云わないで だまってそばにいて♪」

「なんてきれいな声なんだろう..」
8歳の私は、このとき初めて「懐かしい」と想う気持ちを知りました。
もの心つく前から、聴いていたような、不思議な感覚。
胸をしめつけられるような郷愁感。
これを、デジャブと言わずして何というのでしょうか?
このメロディが好き、この声が好き、この歌が好き。
その姿をテレビで見たとき、園まりさんご本人も好きになりました。

大人になって、当時のことをふり返ったとき「精神的に寄り添うものを求めていたために、懐かしさを感じたのだろうか?」或いは「幼くて脳が未成熟だったが故に、そのような、既視感があったのだろうか?」とも思いました。
しかし、前述のように中高年になっても、園まりさんの声に、深い郷愁感を伴う『デジャブ』を感じることがあるのです。
一音毎に丁寧に、大切に唄う声に、優しさと懐かしさを感じて、私の心は、まりさんに「寄り添う」のです。

この感覚は、もしかすると慕情の一つなのかも知れない。
私の中では、懐かしく感じることと、慕わしく想う気持ちが、よく似ているような気がします。
個人的には、デジャブを見るほどの慕情を感じさせてくれる歌手は、多くありません。
現役で活躍されている歌手の中では、園まりさんただ一人です。
それだけに、まりさんが体調を崩されたときは、美しい声が聴かれなくなるのではないかと、恐怖を感じたことがあります。
そのとき私にとって、かけがえのない存在であることに気づかされました。
どうか無理をされることがないよう、これからも長く歌声を聴かせてほしい。
いつも心の中で応援しています...園まりさん 大好き。

・・・おしまい

「♪花はどこへ行った」

副題:最近は聴かなくなった『反戦歌』

Photo

前回、「♪あれがお父さまよ」を書きながら、この歌が、フォークソングではなくても『反戦歌』にはなりうるのではないかと考えていたとき、ひょっこり思い出したのが、「♪花はどこへ行った」。
日本で一番、そして世界で一番有名な『反戦歌』ですよね。
昭和40年代前半、『ザ・リガニーズ』が歌って大ヒットしたフォークソングですが、元はアメリカでヒットした曲を、カバーしたもののようです。

歌詞

ところで、この文章を読んでいるあなた。
このページにたどり着いたと云うことは、『ザ・リガニーズ』をオンタイムで聴いた世代ではありませんか?
当時「変な名前のグループだなぁ」と思いながらも、「♪花はどこへ行った」の歌詞が、「初めて聴いたような気がしない」さらりと心にとけ込むような『既視感』を感じませんでしたか?

実は遡ること昭和39年の春、園まりさんが殆ど同じ歌詞で唄い、スマッシュヒットさせているのです。
しかし、私個人としては「♪花はどこへ行った」をカバーした歌手が、『ザ・リガニーズ』以前にきっと大勢いたのだろうと考え、そのどれかを聴いたのだと、勝手に想い込んでおりました。

ところが先日wikiを見たところ《ザ・リガニーズが1966年発表。おそらく、日本で最初の同曲のカバー音源と考えられる。》と出ていたのです。
もちろんこの記述は間違っているのですが、私の《『ザ・リガニーズ』以前にもきっと多くの歌手がカバーしていたのだろう》と云う想像も間違っていたようです。
考えられるのは、昭和40年以前にこれをカバーしたのは、園まりさんただ一人か、他にいたとしても、ごく少数であろうと云うことです。
そうすると、『ザ・リガニーズ』の「♪花はどこへ行った」を聴いたとき感じた「既視感」は、園まりさんの歌声を聴いていたため、という可能性は充分あります。

私が「園まり」の名を知ったのは、昭和39年秋「♪何も云わないで」が大ヒットしたときですから「♪花はどこへ行った」を誰が唄っているか知らないで聴いた可能性は、大きいのですが、まりさんがまだトップスターに上りつめる以前のことですから、同じような人が大勢いたとしても不思議はありません。

下に園まりバージョンの歌詞を、かいつまんで記します。


Photo_2


このバージョンの作詞は『T.オータ』、補作が『安井かずみ』となっているのですが『T.オータ』とは、おおたたかし氏のことなのでしょうか?
もしそうであれば、昭和41年に、おおたたかし氏によって訳詞されたとする「ザ・リガニーズ バージョン」が実際には昭和39年に、ほぼ完成されていたことになります。
それならば、英語の元詞に忠実でないのは理解できます。
訳詞ではなく『作詞』だったわけですから。

当時、園まりさんは、二十歳になったばかりの若手アイドル歌手だったにもかかわらず、神々しいまでの「天使の歌声」を聴かせてくれます。
それは、朗々と唄い、メリハリがあって、フォークとは違うし、反戦歌というより、ちょっとオペラみたいな感じ。
歌声の美しさと、耳あたりの良さが前面に出ています。
それでいながら、心に深く染みこみ、何度も来り返し聴くと、歌詞の内容が突如映像としてうかぶ瞬間があります。
そのとき、この美しい歌の後ろに隠された、ぞっとするほど残酷な戦争の本質と、それが生む悲しく切ない結果を、肌で感じとることができます。

それは、家族の愛も、友情も、そして恋人どうしの愛も、全て無惨に踏みにじってしまうものです。
戦争は何があってもダメです、絶対にしちゃいけない。
戦争好きの大国に対しても、イエスマンになっちゃいけない、主体性のある国にならなければ。
何人も、自分や家族や恋人のことを想うなら、最も大切なものが、見えてくるはずです。

・・・おしまい

6月15日追記:

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園まりさんの帽子が「花はどこへ行った」のジャケットに写っているのと、よく似てますね。
その頃の写真なのでしょうか?
まりちゃんカワユスな~^^

「♪あれがお父さまよ」

副題:戦後はまだ終わっていない

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少し前、中日新聞に、戦争体験記事が載っていました。
大勢の体験記事が連載される中、一人のおばあさんの記事が目にとまり、それを読んだときから、忘れられなくなってしまいました。
自分の言葉で伝えられると良いのですが、私の経験と稚拙な文章では、とても無理なので、引用することをお許し願いたい。
以下は、ほぼその全文です。


沖縄戦で夫が戦死した。
結婚して一年半、18歳で長女を身ごもった時に召集令状が届いた。
夫は「半年前に入隊していれば、おまえをこんな目に遭わせずに済んだ」と哀れんでくれた。
「あなたが帰ってこなくても私が働いてこの子と生きていきます」と答えると、夫は涙をこぼし、ぎゅっと抱き寄せてくれた。
沖縄から名前を書いた白木の札だけが戻った。
戦後、夫が艦砲射撃を浴びた洞窟を訪れた。
遺骨の山を見て「この中にあの人がいるかも」と涙した。
再婚話は全て断った。
それがあの人との約束だったから。


「あなたが帰ってこなくても私が働いてこの子と生きていきます」と書いたところで、不覚にも涙がこぼれてしまいました。
お国のために、見事散らねばならない時代「生きて帰って」とは言えなかったかもしれないが、それ以上に、二度と逢えないことを覚悟して「この子と生きていきます」と健気に振る舞わねばならなかったのが、あまりにも憐れで。
太平洋戦争末期に沖縄に行くというのは、そう云うことだったのでしょう。

これを読んで、真っ先に思い出したのが、「じいちゃん」のことでした。
私の叔父二人は、同じく戦争末期、南方の前線で亡くなっています。
戦死と戦病死だそうです。
私が生まれる遥か以前なので、会ったことはありません。
母方の在所に行くと、仏壇には今も遺影が飾ってあり、それで姿を偲ぶのみです。
出征前に撮ったと想われる写真は、若く凛々しいのですが、何となく哀しげに見えて、複雑な想いです。
今は亡き祖父は、二人の訃報が届いたとき、家族に涙を見せたくなくて、真っ暗になるまで、畑で泣いていたそうです。
気丈な祖父が、何十年経っても、遺影を前に泣いているのを、見たこともあります。
夫を亡くした妻、父を亡くした子、我が子を亡くした親・・・決して心の傷が癒えることはありません。
「じいちゃん、あの世で、二人と逢えますように...」

そして同時に思い出したのが、園まりさんが唄う「♪あれがお父さまよ」。
昭和40年秋に発表されたこの歌は、神風特攻隊で亡くなった方の妻が、テレビに映る夫の写真を見つけ、19歳の娘さんに「あれがお父さまよ」と叫ぶお話。
これがどうも、実話が元になっているらしいのです。

この中でも「3番」が特に切ないと想うのですが、その部分だけ抜き書きします。


今はこの子があなたのかわり
いつでも私のそばにいます
ーあれがおとうさまよー
母子(おやこ)ふたりが手を合わせ
捧げる祈りに さしぐむ泪


「今はこの子があなたのかわり」・・実は私の母が同じ言葉を言ったことがあります。
私の父は、私が15歳のとき、若くして病で亡くなったのですが、それから数年後、母が仏壇に向かっているときでした。
正確には「今はこの子たちが、あなたのかわり」でしたが(私には弟がいるので)。
夫を亡くした妻の愛情は、我が子に向かうのでしょうか?
実話が元にならなければ出てこない詞です。
聴くときには、どうか歌詞を、目で追ってほしい。

そしてこの歌にはアンサーソングがあります。
同じシングルのB面、「♪涙のスクリーン」。
こちらも「3番」だけ抜き書きします


ーあれがおとうさまねー
うつる写真に駈け寄って
すがりつきたい娘のこころ
瞼まっ赤に泣きはらし
何度も何度も呼びかける
遠い空の おとうさま


昭和30年を過ぎた頃から「戦後は終わった」との言葉があるようですが、本当は今でも終わっていない。
この歌や、冒頭の戦争体験記事に出てくる娘さんは、60代後半になっているはずですが、どこかで父を知らない寂しさを、いまも感じていることでしょう。
そんな人は、まだまだ日本に大勢いる。
夫を亡くした妻、父を亡くした子、そして我が子を亡くした親の悲しみは、何十年経っても、決して消えることはありません。
戦争は何があってもダメです、絶対にしちゃいけない。

「♪あれがお父さまよ」は当時かなりのヒットをしたらしいのですが、時代背景色が強すぎたのか、美しくも哀しすぎたのか、その後殆ど歌われることもなく、忘れられてしまったようです。
かく言う私も、聴いたことがあるような無いような、あやふやで、殆ど記憶にありません。
でも、この2曲は、唄い繋いでいくべき歌だと想うのですが、どうでしょうか?
全ての日本人から戦後の記憶が無くなったとき、日本丸の舵は、おかしな方向にきられ、「戦前」になるような気がします。

・・・おしまい

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