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宮川先生のこと

新年です!
去年はいろいろありましたね~
日本はどうなってしまうのかと想いました。
災害に遭われた地域の復興はまだまだこれからですが、少しでも良い年に、そして穏やかで平和な年になりますよう、祈りたいと思います。

Photo

私もここ暫く、弟の家のことが大変だったので、その間、園まりさん関連の記事をあまり書いていませんでしたが、CDだけはしっかり聴いておりましたですよ。
それで、苦しい気持ちが楽になりますからね。
他にも、「西田佐知子」「ザ・ピーナッツ」など、聴いていたのですが、何気なく、ライナーノーツを見ているときに、気がつきました。
私のお気に入りのうち、かなりの割合で宮川先生の作曲か、もしくは編曲されたものだったのです。
それで、あらためて聴き直してみると・・・・う~む、良い!!!
こんなにも優しく、美しく、そして楽しい曲を作る方が、他にいらっしゃるでしょうか。
ちなみに、
ケータイの着メロも「♪シャボン玉ホリデー」なのですが、これも先生の作曲なんですよね、あまり意識していませんでしたが。
そんなこともあって、先生のことを、何か書いてみたいと思ったのですが、何しろ、間口が広くその上奥行きの深い方なので、私の手に負える内容ではありませんし、いくら綴っても、このページが完成すると云うことはないと思われます。

「ザ・ピーナッツ」を育て、二人に多くの名曲を提供しヒットに導いた人。
あらゆるTV番組やCMに曲を提供し貢献してきた、テレビ時代の申し子。
そして「宇宙戦艦ヤマト」の作曲者でもあり、そのシリーズに大きな貢献をした人物。

世間の認識はもっと広い範囲にわたるのでしょうが、私の頭の中にある「宮川泰」は、たった三つ、「ザ・ピーナッツ」「園まり」「面白いおじさん」なんですよね。
そこだけに絞れば何か書けるかも知れません。

何から書きましょうか?
「ザ・ピーナッツ」のことから書きましょうか。

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○運命の出会い
先生は、昭和6年3月18日北海道留萌市に生まれます。
大阪学芸大学在学中にバンド活動を開始し、その後上京して「平岡精二 セクステット」と言うバンドを経た後、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」のメンバーになります。
ナベプロ社長、渡辺晋さんとの出会いが先生の運命を変えることになるのです。
ところが、このすぐ後、それに匹敵する出会いがもう一つ。
「ザ・ピーナッツ」です、昭和33年のことでした。
この年の夏「シックス・ジョーズ」の面々は名古屋で公演を行い、仕事を終えて市内の「ナイトクラブ・フェルナンデス」(一説にはフェルナンド)へ飲みに行ったそうです。
そこで目にしたのが「伊藤シスターズ」。
「伊藤日出代」「伊藤月子」のお二人でした。
その歌声を聴いて、驚愕した宮川先生は、大至急事務所に報告します。
急遽名古屋に飛ぶ渡辺晋さんと美佐副社長。
ロカビリーブームまっただ中、二人のコーラスを聴いて、その新鮮さに驚いたことでしょう。
「次の時代がやってくる!」
そう感じたに違いありません。
スカウトされた「伊藤シスターズ」は上京、渡辺晋社長宅に寄宿します。
中尾ミエさんや伊藤ゆかりさんも社長宅に寄宿したと聞きますから、その頃はそれが普通だったのでしょうか?
それはともかく、宮川先生は二人の「秘蔵っ子」を一手に任されます。
力を尽くして、お二人のため編曲、作曲をし、ピーナッツも宮川流の優しくも厳しいレッスンに応えて才能をフルに発揮、ヒットを連発します。
先生は、その一方で、昭和34年には音楽番組「ザ・ヒットパレード」36年には「シャボン玉ホリデー」を手がけました。
その頃には、「知る人ぞ知る」存在になっていたはずですが、「宮川泰」の名を決定的に世間に知らしめることとなったのは、昭和37年の「♪ふりむかないで」だろうと想います。
ところが、「ザ・ピーナッツ」はその時すでに、「♪可愛い花」等の大ヒットでトップスターになっていたわけですから、師匠よりも弟子の方が先に有名になった事になりますよね。
もちろん、「♪可愛い花」の編曲は先生なのですが、「作曲」と違い、今ひとつ目立たない立場でした。
しかし実際には、先生の編曲がなければ、この名曲はヒットしなかったのではないか、と私は考えます。
目立ちたがりの宮川先生なのに、自らの名声よりもピーナッツを育てることに心血を注いでいたところが、先生らしいなぁ~と感じるのですが、いかがですか?
そして翌年、先生の名は最高傑作「♪恋のバカンス」で不動のものとなります(個人的には「♪恋のバカンス」か「♪何も云わないで」が最高だと思います)。
また、「シャボン玉ホリデー」を手がけようとしていた頃、別の出会いがありました。
その少女は、父親につれられて、渡辺晋社長宅を訪れます。
この時、先生は社長宅にいたのですが、社長とともに、その場でオーディションを行うことにしたのです。
当時は、ロカビリーやカバーポップス全盛でしたが、本人に望む曲を訪ねると、大津美子さんの「♪ここに幸あり」を歌うと言います。
歌い出すと、それまで少し内気に見えた少女は、朗々と、そして堂々と歌ったのでしょう。
先生は、それを聴いて、ピーナッツとは違う可能性を見出したのではないか?
もしかすると、「伊藤シスターズ」を始めて観たときのように「次の時代」を感じたのかも知れません。
これで、オーディションは一発合格、即採用、そしてレコードデビューもし、「シャボン玉ホリデー」等にも出演することとなっていきます。
「歌手:園まり」の誕生です。


○クリエイターとしての野望
ところで、「園まり節」のところでも書きましたとおり「♪何も云わないで」が完成したのは昭和39年、そのきっかけになった「♪太陽はひとりぼっち」が37年ですから、実に2年間も構想を温めていたことになります。
これは、仕事(作曲)が速い宮川先生としては、異例のことではないでしょうか?
ピーナッツの名曲「♪恋のバカンス」がカテリーナ・ヴァレンテとの共演が決まってから急遽作られたのとは対照的です。
「♪何も云わないで」が相当な拘りを持って、作曲されたことが伺われます。
ところが、曲を聴く限り、まるで小川の清流の如くさらさらと、あっさりした印象ですよね。
「♪逢いたくて逢いたくて」のような「商品価値」を高めようと云った意図がまるで感じられないのです。
あくまで、私の勝手な想像ですが、これは「宮川泰の新たなる挑戦」ではなかったかと考えています。
音楽家としての野望と言っても良いかも知れません。
「園まり」なる逸材を前にして、それまでに無かった世界を築いてみたい。
※売れるかどうかより、純粋に良い作品を作ってみたい・・・

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ところが渡辺晋社長は「これは売れる!」と思ったのでしょう。
「NHK・きょうのうた」で歌うよう手配し、日劇ウエスタンカーニバルにも、同じスタイルで出演させます。
結果的には商品として大成功を納めました。
そしてこの時、「歌手:園まり」の方向性が決まったのだと想います。

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※プロの作曲家が、ビジネス抜きで作品を手がけることは、通常考えにくいことです。
レコードになるまでには、莫大な費用がかかりますからね。
ところがそれに似た実例があるのです。
園まりさんの主演映画「愛のきずな」と谷啓さん主演「奇々怪々俺は誰だ?!」がそれです。
どちらも、坪島監督が学生時代から脚本を書いていたのですが、将来監督になったら「何としてでも撮ってやろう」と思いつつ、構想を温めていました。
数多くのクレージー映画をヒットさせた後、渡辺晋社長に言ったそうです。
「アイデアが枯れてしまいました、クレージーをしばらく休ませてください」。
社長曰く「撮りたいものがあるんだろ? 何が撮りたいんだ? 費用を出すから」。
念願叶い、映画人として、長年の望みを実現させることができたわけですね。
「渡辺社長がいなければ、撮れてなかった」と監督。
これは、監督ご自身が話されていたことなので、間違いありません。
こうして完成した「愛のきずな」は、知る人ぞ知る名作となって、何十年経った今でも、ファンは多いと云うわけです。
「いつかきっと作りたい!」と構想を温めていた作品を手がけたこと、純粋に良い作品を作りたいと考えた点で「♪何も云わないで」誕生と、少し似てませんか?

                                             

2012年1月6日 追記

○歌心
ちょっと話しが、寄り道してしまいました。
寄り道ついでに・・・園まりさん、たまに宮川先生と、そっくりな言い方をされるのを、ご存じでしょうか?
一例を挙げると、普段はエレガントなまりさんが、ちょっぴりせっかちそうに「そう,そう,そう」「そうです,そうです」なんて言うとき。
もしかすると、この言葉、歌唱指導のとき、繰りかえし聞かされていたのではないでしょうか?
先生の穏やかな人柄を考えると、レッスンは、優しく懇切丁寧であったろうと想われますが、決して甘くはなかったはずです。
むしろ、とびきり厳しかったのではないか?
宮川先生の、音楽に対する妥協のなさ、「園まり節」と云う難しい歌唱法を想うと、十分ありえることです。
まりさんにとっては、次から次へと出てくる注文に、どう応えればよいか分からず、試行錯誤の連続だったかも知れません。
そんな中、「これだ!」と云う歌い方が出来たとき、先生の口からおもわずでた言葉が「そう,そう,そう」「そうです,そうです」じゃなかったんでしょうかね~
それで、先生の口調が遷ってしまった(全部想像ですよ)。
厳密に云えば、先生の「そうです,そうです」は園まりさんの言い方よりさらに優しくて「救いあげる」感じ、とでも表現すれば良いのでしょうか。
ですから、まりさんは、先生のことを恩師と言い、いまでも尊敬しているのです。
先生も、晩年まで「♪あんたなんか を三人娘で歌ったら面白いんじゃないか」みたいなコメントを寄せられたりして、気にかけてくださったようです。
仕事は別々になっても、最後まで師弟愛は続いていたわけですよね。

ピーナッツもそうですが、こういった厳しいレッスンに応えて結果が出せたのは、師弟の熱意や才能も当然あるでしょうが、先生の人柄によるところも大きかったのではないかと、個人的には想います。
温厚で、情熱的、しかもひょうきんな人柄もあって、厳しいレッスンにも信頼してついていける。
先生の歌心を感じながら、レッスンに励むことが出来る。
歌心と云えば、先生の鞄の中にはいつも、五線譜と万年筆、それとインク消しを仕込んだ特殊なペンが入っていたようです。
「消しゴムを使うとね、細かいところを思いどおりに消せない、だからペンで書いて、インク消しが入ったもう一本のペンで消すの、そうすると細かいところもきれいに消せる、だからぼくの楽譜は真っ黄色」。
そんな感じでいつもピアノに向かい、ピアノがないところでは口笛を吹きながら創作活動をしていた・・・
ご子息で音楽家の宮川彬良さんは、いつもその口笛の音に、父の歌心を感じていたそうです。
そして、父に憧れ、追いつき、追い越したいと思っていた。
先生が亡くなった今でも、その歌心は、彬良さんと、曲を授かった歌手、そしてファンの中に、しっかり生きているのだろうと想います。

                                                   

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